Evasion 2巻 和洋折衷『妖』幻想譚
「あら? 久居君、まだやってたの?」
カロッサの声に、一人練習部屋に残っていた久居が振り返る。
「ご迷惑をおかけしてすみません。もう少しで形を掴めそうで……」
久居は、どれほど長く集中していたのか、ぽたぽたと髪の先から雫が垂れるほどに汗をかいていた。
「いや、どこも迷惑ってことはないけど、リル君はもうお風呂入っちゃったわよ」
カロッサの言葉に、久居の顔色が変わる。
(それは危険です!!)
そこへ、リルの悲しげな悲鳴が家中に響いた。
「ぎゃあぁぁぁぁぁぁ!!」
「お風呂場からだわ!」
(遅かったですか……)
カロッサの声を背に、久居は駆け出していた。
「リル、大丈夫ですか!?」
久居がバタンと風呂場の戸を開けると、リルが手を伸ばしてきた。
「久居ぃぃぃ、目に水が全部かかるぅぅぅ」
(やはり……)
久居は思った通りのびしょびしょなリルを前に、腕と足の服を捲ると首巻きを短く括り、風呂場へ足を踏み入れた。
「今お手伝いします」
「うわーん、目が痛いよぅ」
久居に顔を拭かれて、ようやくリルが目をしぱしぱさせながら開いた。
久居はそのまま、リルの頭を洗ってやる。
「ふー……危ないとこだったねっ」
「え? ええ……」
湯船に入ってひと心地ついたリルの言葉に、久居は内心疑問を抱きつつも同意してやる。
こちらの地域では一般的に湯船に浸かる習慣はなかったが、この家では元家主の趣味で、大きな浴室に大きな浴槽が作りつけてあった。
湖に隣接し、水が豊富に確保できることもあるのだろう。
「では私はこれで……」
風呂場から出ようとする久居に、リルが元気に声をかける。
「よーし、お礼にボクが背中流してあげるよっ」
「え!?」
「カロッサのお風呂広いし、二人でも十分入れるよー」
「い、いえ私は……」
断ろうとする久居に、リルの寂しげな声が届く。
「久居……戻っちゃうの? ……一緒に入りたいよぅ……」
潤んだ瞳で縋るように見上げられ、久居が「ゔっ」と小さく呻る。
「た、鍛錬の続きが……」
リルは、まるで捨てられた子犬かというような顔で、懸命に久居を見つめている。
「……続き……が……」
たじろぐ久居を見つめるリルの、薄茶色の瞳がじわりと滲む。
久居には、それを押してまで誘いを断ることはできなかった。
はぁ……。と、久居はため息を吐いて、観念する。
「では、少しだけ……」
「わーいっ」
途端、花を振りまくような笑顔を見せるリルに、久居は内心苦笑しつつも渋い顔で告げる。
「背中は自分で洗います」
「えー」
リルを湯船に残し、久居が自身の髪を洗っていると、リルが「あれ?」と声を上げた。
「久居、背中に傷があるよ?」
言われて、久居が濡れた前髪を掻き上げながら肩越しに振り返る。
その背、左肩に近い辺りに、何度も刻まれえぐられた様な傷痕があった。
「あの鬼にやられたの? 治さないの?」
「ああ、これは……」
久居は、ほんの少し言い淀むような間をおいて、ゆっくり答える。
「古い……傷なんです……」
「ふーん……」
その傷の奥に、何かアザのようなものが浮かんでいる。
(なんだろう。なんか模様が、透けて見える……?)
こしこしと目を擦るリルは、ふやけてきた頭が考える事をやめようとしていることに気付く。
(あれ……?)
視界がぼんやりと霞んでゆく。
ぶくぶくという音に、久居は慌てて立ち上がる。
「リル! 湯船で寝ては危険です!」
リルは、浴槽の淵に両手をかけたまま、静かに湯の中へ沈もうとしていた。
作品名:Evasion 2巻 和洋折衷『妖』幻想譚 作家名:弓屋 晶都