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Evasion 2巻 和洋折衷『妖』幻想譚

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13話『発動』



 穏やかな昼下がり。
 リルとクリスは、大きな噴水のある大広場に居た。
 広場は、大勢の人で賑わっている。
 小さな子ども達が広場を走り回るのを眺めながら、二人は話していた。

 クリスは、人通りの多い場所の方が安全な事を知っているのか、日中は人の多いところで過ごしていた。

「すみません、お待たせしてしまいました」
 そこに、ふらつく足取りで久居が戻ってきた。
「お帰り久居ーっ」
 と笑顔を見せたリルが、次の瞬間三歩下がった。
「――ってお酒臭っっっっ!!!」
 久居は、むせ返るほどの酒気を放っていた。
「申し訳ありません……」
 真っ赤な顔の久居が、申し訳なさそうに、力なく苦笑した。
「成り行き上どうしても、飲み比べに勝たねばならなくて……」
 おそらく、ここまで飲まれる予定ではなかったのだろう。
 己の不甲斐無さを自嘲するようなその表情に、リルが心配顔になる。
 体が熱いのか、久居は首元の首巻きをくつろげて、風を通そうとしている。
「けれど、有力な情報を……」
 話している久居の体がゆらりと傾く。
 リルは慌ててそれを抱き止めた。
「得られまし……た…………」
 小さなリルの肩に縋り付くようにして、久居は目を閉じる。
「ひ、久居……?」
 リルは、久居が限界だった事を知る。
 飲み比べと言っていたが、相手は一体何人だったのだろう。
 久居の肩をしっかり支えて、リルはどこに彼をおろそうかと辺りを見回した。
 ベンチはどれも埋まっている。
 かといってあまり隅の方は良くないだろう。
 噴水の脇にでも下ろそうか。
「え、どうしたの? 久居さん寝ちゃったの!?」
「う、うん……」
 クリスに、リルは答える。
「よっぽどたくさん飲まされたのかなぁ……。久居、お酒は強い方なんだけど……」
 クリスは、リルが担いだままの久居を覗きみる。
 ぐったりとした、赤いのだか青いのだかわからないような顔で、眉を顰めたまま目を閉じている久居は、何だか不憫に見えた。

「……どうして……?」

 クリスは思わず、疑問を零してしまう。
「久居さん、大怪我したの……、私のせいだよ?」
「……うん」
 リルは静かに頷いた。
 久居は全身の怪我を治す際、急に治ってクリスに驚かれるといけないから、と表面に傷を残した。
 久居の傷痕は、不審感を与えなかったかわりに、クリスの心に罪悪感を残した。
 思い詰めるような表情のクリスを、その腕に抱かれたふわふわの白猫が励ます。
『こいつらが勝手に首突っ込んできたんだ。クリスのせいじゃないだろ』
「二人とも、私に会ったばっかりなのに……。私、二人に何も返せないのに……」
『見返りなんてそんなもん、クリスの笑顔で十分過ぎるぜ』
 牛乳が、きらりとダンディなポーズで語る。本猫は決まったとばかりにいい顔をしているが、ここに猫の言葉がわかる者はいない。
「……やっぱりおかしいよ。あんな目に遭ったのに、二人とも全然変わらないし……」
 不安と疑問が混ざり合うクリスの言葉に、リルはただ頷くしかできなかった。
「……うん……」
「ねぇ、本当はどうしてなの?」
 クリスが身を乗り出す。
 おろされた腕から、牛乳は渋々飛び降りた。
「どうして、私の事……」
 その言葉を遮るように、リルが言う。
「ボクが、もし話したら……、クリスも教えてくれる? どうして追われてるのか……」
 薄茶色の優しい色をした瞳が、真っ直ぐにクリスを見つめる。
 その瞳には、期待ではなく、寂しさや悲しみのようなものが映っていた。
「……そ、それは……」
 クリスが、左手首の腕輪を右手で強く握り締める。
 じわりと俯いてしまったクリスに、リルはどこか痛そうな顔でゆっくり微笑んだ。
「意地悪な事言ってごめん」
 リルの少年らしい声が、静かに、優しく響く。
「ボクも、本当は言いたいんだけど……、今は言えないんだ」
 クリスが、リルの顔を見る。
「でも、クリスの事をちゃんと守り抜いて、話せる時が来たら」
 一つ一つの言葉をゆっくり伝えながら、リルは、クリスの手をそっと握った。
「絶対、クリスには本当の事を話すって、約束するよ」
「リル……」
 クリスは、自分より少し背の低いリルをジッと見る。
 リルは、クリスを安心させようとするかのように、柔らかく微笑んだ。
 励まされている事に気付いて、クリスが苦笑する。
 こんな、小さな子に。とクリスは思った。
「リルはちっちゃいのに、なんだか大変なのね」
 人のこと言えないけど。とクリスが付け足しながら言うと、リルがあからさまに衝撃を受けた。
「ち、ちっちゃくないよっ、クリスと同じくらいだよっ」
「え……? だって私、今年で十七になるよ? リルって十かそこらでしょ?」
 キョトンとするクリスに、リルがあわあわと手を振って否定する。
「ボ、ボクもう十七歳だよーっ」
「ええええええ!?」
「先月お誕生日だったもんっ」
 リルが情けなく半べそで否定するのを見て、クリスは思う。
(これで同い年!?)

 耳元で叫ばれ、泣かれ、揺らされて、久居が小さく呻く。

「み…………、水…………」

「ミミズ?」
「水が欲しいって言ってるのよ!」
 聞こえたままに尋ねたリルに、クリスが思わず突っ込んだ。
「噴水のお水でいい?」
「ダメに決まってるでしょ!?」
 答える気力のない久居にかわって、クリスが止める。
「もうっ! 私、共同水道行ってくるから!」
 リルに任せていては埒が明かないと思ったのか、クリスが駆け出す。
「あっ、ボクも行くよーっ!!」
 リルが慌てて久居を噴水の傍に降ろすと、後を追う。
 駆け去るクリスの後ろ姿にフリーを重ねてしまうのか、リルはここのところ、クリスの後ろを牛乳と同じようについて回っていた。

 二人と一匹の背中を見送りながら、久居は幼い頃の菰野を思い出していた。
 こんな風に、久居が体調を崩した時、菰野もよく水を汲みに走ってくれていた。
 桶や湯呑を持って、栗色の髪を揺らして、大急ぎで戻ってくると、小さな菰野はいつも自慢げに胸を張って、それを渡してくれた。
 久居の役に立てた事が嬉しくてたまらない。そんな笑顔に、久居はいつも胸がいっぱいになっていた。

 久居が、懐かしい記憶に細めた視界の中へ、音もなく影が差す。
 気配なく現れた人影に、久居は目を見開いた。
 見上げれば、澄み渡る青空を背に、おおよそ似付かわしくないローブとフードの少年がこちらを見下ろしている。
 前は闇夜の中でよくわからなかったが、その瞳は燃えるような赤い色をしていた。
 これは確かに、顔を隠していなければ、一見して人ではないと思われるだろう。

「あなたは、先日の……」
 何とか酔いを抑えて立ち上がる久居に、少年が口を開く。
「そう警戒すんなよ。お前にちょっと聞きたい事があるだけだ」
 まだ広場は人で溢れている。
 こんな場所で手を出してくるとは考えづらいが、久居はそれでも構えて向き合った。
「……お前、誰の差し金で動いてるんだ」
 ボソリと呟くような言葉に、久居が動揺する。
 一瞬、カロッサの事を知っているのかとも勘繰るが、それは考え過ぎだろう。
 どちらにせよ、決め付けるのは時期尚早だ。