Evasion 1巻 和洋折衷『妖』幻想譚
一方で菰野は、深く暗い夢の中にいた。
どんなに目が慣れてもそこは薄暗く、右も左も分からない。
何もない場所を、少年は手探りで彷徨っていた。
その姿は、今よりも五つほど幼く見える。
手足に纏わりつくような重苦しい空気の中、少年は母を探して駆けていた。
「母様……。母様、どちらですか……?」
不意に何か柔らかいものを踏んで、それが自身の探していた母だと気付く。
「母様!」
床に倒れた母は、血溜まりに沈んでいた。
「しっかりしてくださいっ! 母様! 一体何があったのですか!!」
菰野の声に、母はピクリと指先を動かす。
「母様!!」
悲痛な菰野の叫びに応えるようにして、母は、緩慢に血溜まりから顔を上げる。
どろりと血のしたたり落ちる、血塗れの顔を。
ゆっくりと口を開いた母は、溢れる赤いものとともに、ごぼりと囁いた。
「……妖精の……呪いよ……」
衝撃に、菰野は目覚めた。
心臓が激しく跳ね、息が詰まる。
夢だったのだと気付いた途端、全身から汗がどっと噴き出した。
ふと、自身に触れる体温に視線を振れば、菰野の肩に寄りかかるようにして、フリーが寝息をたてていた。
菰野の肩が大きく揺れる。
至近距離のフリーの顔は、あんな夢の直後に見るには刺激が強すぎた。
思わず全身に入ってしまった力を、意識的に抜きながら、菰野は空を見上げる。
陽はもう随分と動いていた。
菰野は心を落ち着けながら、もう一度フリーの顔を見る。
フリーは菰野の肩に頬を寄せて、静かに寝息を立てている。
彼女が寝てしまったのは、自分が寝ていたせいだろう。
(……起こさないで、待っててくれたんだ……)
彼女がひとりで、自分の隣で、待ちくたびれて寝てしまった事を思い、じわりと解れかけた心を、さっきの夢の光景が上から暗く塗り潰す。
妖精の呪いだと囁く母の言葉が、耳の奥で繰り返されて、菰野はたまらず悪寒に背を震わせた。
それを振り切るように、力一杯、頭を振る。
(そんな事あるわけない!)
フリーは、すっかり気を許した寝顔を菰野に見せている。
そんな妖精の姿を、菰野はもう一度見つめると、心の中で強く叫ぶ。
(そんな事……絶対……あるものか!!)
菰野の激情にあてられたのか、フリーが小さく身じろぐ。
もにょもにょと眠そうに顔を動かして、フリーは目を開いた。
その僅かな間に、可能な限り、菰野は心を整える。
「おはよう。待たせちゃったね、ごめん」
柔らかく声をかけられて、フリーは自分が寝てしまっていたことに気付く。
「あ、ううん。私こそ寝ちゃったみたいで、ごめんね……」
フリーは焦りつつ答える。
顔を上げると、菰野は、いつものように静かに微笑んでいた。
さっきは確かに、苦しそうな顔をして眠っていたのに。とフリーは思う。
フリーと目が合うと、菰野はまた、ふわりと微笑んだ。
やはりそうだ。とフリーは確信する。
この人は、たとえ辛いことがあっても、その直後でも、笑える人なんだ……。
そう気付くと、目の前のこの笑顔さえ、どこか辛そうに思える。
ううん。きっと、本当に、辛いんだろう。
理由はまだ分からないけれど、眠れないほどの何かがあったのは、間違いないのだから。
フリーは、しっかりと息を吸う。
彼の心の芯に、自分の声を届けるために。
「……菰野、何があったの?」
栗色の瞳を、金色の瞳が真っ直ぐ見つめている。
フリーの言葉に貫かれ、菰野は思わず小さな声を漏らした。
「え……」
その声は、いつもよりも掠れて聞こえた。
作品名:Evasion 1巻 和洋折衷『妖』幻想譚 作家名:弓屋 晶都