Evasion 1巻 和洋折衷『妖』幻想譚
菰野の母である加野が、自室で倒れたのは、今から五年ほど前の事だった。
女官が慌ただしく城を駆けていた。
血を吐いて倒れたと、断片的に耳にして、菰野が母の部屋を目指して走り出す。
その背を久居は必死で追った。
「母様!! 母様っ!!」
「お止めください菰野様!!」
倒れた母に縋ろうとする菰野を、久居は全力で抑えた。
「離せ久居!」
「出来ません!」
加野には持病もなく、前日までに体調不良などは無かった。
「未知の伝染病である可能性もあるんです!」
久居はそう言ったが、おそらく毒殺であろうことは理解していた。
だからこそ、久居は菰野を加野に触れさせるわけにはいかなかった。
どこに毒物が残っているか、まだ分からない以上は。
「久居っ!!」
菰野の悲痛な叫びに、久居の奥歯がギリッと鳴った。
その音に、母ばかりを見つめていた菰野がはじめて久居を見る。
久居は目を伏せていたが、その横顔は今まで見たどの顔よりも苦し気に見えた。
「私は、どのように思われても構いません……」
菰野の視線に、久居が低く唸るように告げる。
「けれど、菰野様のお命だけは、この身に代えてもお守り致します」
「……久居……」
菰野は、そんな久居の姿に、母へ触れることは、今は叶わないのだと知る。
加野の部屋はしばらく代わる代わる訪れる人々で騒然としていたが、加野が運ばれたのは医務室ではなかった。
菰野の母は既に処置のしようもなく、事切れていた。
「……なぜ、母様は急に……?」
菰野の震えるような小さな声が、ざわめきの残る廊下に落ちる。
「昨日はあんなに……お元気でいらしたのに……」
誰一人居なくなった母の部屋の前に、菰野は立ち尽くしていた。
譲原皇からは、まだ室内への立ち入りは禁じられている。
久居は、慎重に言葉を選んで答えた。
「加野様が迷い込まれた山は、人が踏み入ることのできない山です……。
私達の知らない毒を持った植物があったとしても、おかしくありません……」
「……毒……?」
不安を滲ませ聞き返す、菰野の声。
それに答えたのは、久居ではなかった。
「毒なんかじゃない」
現れたのは葛原だった。
彼の言葉に、遠くを通り過ぎようとしていた女官達も、足を止めこちらの様子を窺っている。
葛原は、いつから聞いていたのか、はっきりと強い言葉で続ける。
「加野伯母様は、神の山を侵し……妖精まで目にしてしまったそうじゃないか」
菰野はおずおずと振り返り、久居はその場に膝を付く。
「これは妖精の呪いだよ」
敬愛する義兄の言葉に、葛原を見上げる菰野の顔がじわりと青ざめる。
「妖精の……呪い……?」
「さあ、分かったらもう部屋に帰るんだ。菰野まで呪われてしまうよ?」
葛原は優しげに言いながら、宥めるように菰野の頭を撫でる。
「は……はい……」
身長差もあり、菰野から葛原の顔は見えなかったが、葛原の口端が大きく歪むのを、久居だけが目にした。
それまでずっと菰野に優しかった葛原が、徐々に態度を変えていったのは、あの時からだったのかも知れない……。と久居は振り返る。
葛原は、その後も加野の件に関して妖精の呪いという見解を示し、譲原皇が発言を控えたこともあってか、城の者達はすっかり加野の死を妖精の呪いだと信じたようだった。
「久居ー、準備できたよー」
リルに呼ばれて、久居はそちらを振り返る。
リルは、かき集めた土を盛り上げて、その山のてっぺんに棒を一本刺したものの前にしゃがみ込んでいた。
手招きをされて、久居もリルに向かい合うように山の前にしゃがむ。
「リルからどうぞ」
促されて、リルは両手でざっくりと山から土を取り除ける。
どうやら二人は棒倒しを始めたようだ。
久居は土を除けながらも、考える。
加野の死因が分からない以上、いずれはそうなっていたのだろうが、それにしても葛原の発言は決定的だった。と。
(やはり……、菰野様がこの山に近付くのは、自殺行為ですね……)
「久居、どうしたの?」
土を除けたまま手を止めていた久居に、リルが心配そうに声をかける。
「いえ、何でもありませんよ」
久居は、いつも通りに微笑んで答えた。
偽りの言葉にホッとした様子で、またウキウキと土を除けるリル。
嬉しそうな表情に、久居は胸の奥が軋んだ。
……自分でも気付かないうちに、自分をまっすぐ慕ってくれるリルに、弟の面影を重ねてしまっていたのだろうか……。
命に代えても、菰野を守り抜くと誓ったはずなのに……。
自身の甘さが、今も菰野を危機にさらし続けているという事実を、久居はもう一度噛み締めた。
作品名:Evasion 1巻 和洋折衷『妖』幻想譚 作家名:弓屋 晶都