Evasion 1巻 和洋折衷『妖』幻想譚
菰野と久居は城の中を駆けていた。
本来ならば走るべきではない場所だったが、今は一刻を争っている。
上がった息も流れる汗もそのままに、菰野がバタンと部屋に入ると、葛原が振り返った。
「菰野、静かに入って来い」
「……っ、すみま、せん……」
はぁはぁと荒い息の合間から、菰野が詫びる。
「来て、くれたか、菰野……」
葛原のすぐ隣から、弱々しく掠れた声がした。
「譲叔父様……」
菰野がその寝台の脇に膝を付く。
「菰野と……、二人で、話をさせてくれ……」
葛原はギリッと小さく歯を鳴らし「……はい、父上」と下がった。
葛原は苛立たしげに、そばに控えていた女官達を共に下がらせる。
「……菰野」
呼ばれて、菰野はもう一歩、譲原へと身を寄せる。
「はい……」
「最後の頼みを……聞いてくれるか?」
最後、という言葉に、菰野の胸は締め付けられる。
「私に……出来ることでしたら」
「そんな顔を、しないでくれ……」
譲原が差し出した手を、菰野は大切そうに支える。
「お前には、いつも……辛い思いばかり、させてしまうな……」
譲原はすっかり細くなった指で、菰野の頬を撫でる。
菰野はその手に頬を寄せると「そんなことはありません」と答えた。
ゆっくり目を閉じて、開く。
「父上、母上と共に過ごせて、私は幸せでした」
その言葉に、譲原はハッとなる。
「――お前……、知っていたのか……」
「はい」
とだけ、菰野は答えた。
「私を……恨んでいるだろうな」
「そのようなこと、決してありません!」
菰野は大きく首を振る。
頬を包む譲原の手を、菰野は両手でしっかりと握り締める。
「私を生かしてくださったこと、お傍に置いてくださったこと……。
本当に……、感謝しています……」
堪えきれず、菰野の頬を涙が一筋伝う。
それは、幼い頃からずっと傍で見守り続けくれた、父への感謝の涙だった。
譲原は口元を弛める。
「そうか……」
譲原は、最後の頼みと称して、一度だけでも父と呼んでくれればと思っていた。
けれど、菰野の中で、自身はずっと父でいられたのだ。
それを知り、譲原の心は満たされてゆく。
よかった……、本当に……。
もう、思い残す事は何も無い。
(久居……、菰野を頼むぞ……)
部屋の壁際に控えていた久居が、ハッと顔を上げる。
菰野は、握り締めていた手から、ほんの僅かに重みが消えたことを感じ取る。
それは、魂の重みだった。
「ゆ……譲叔父様……?」
事態に気づいた葛原が、譲原の名を呼び縋る菰野を突き飛ばすようにして、場所を入れ替わる。
「父上! 父上っ!!」
譲原は、もう目を開けなかった。
「お前達! 何をぼさっとしている!!」
怒鳴られて、女官と医師が慌ただしく譲原を取り囲む。
その外側で、突き飛ばされて床に手をついていた菰野が、ゆっくり顔をあげる。
「お怪我はありませんか?」
そんな菰野を、久居が助け起こした。
二人は、人の輪から距離を取るようにして、部屋の壁際に控えた。
壁を背に立つ菰野の足元で、久居は静かに膝を付く。
「小柚は、まだ来てないんだな……」
菰野の呟きに、久居は「そのようですね」と同意する。
「本丸(ここ)までは距離があるからな……」
「はい……」
寝台の脇では、今も葛原が必死で父を呼んでいた。
「父上っ!!」
(最後の最後まで……菰野だけなのですか!?
何故私には何も仰ってくださらないのですか!?)
葛原の瞳から止めどなく涙が溢れる。
寝台で眠る父は、満足そうに満ち足りた表情を浮かべていた。
……それが葛原には、悲しくてたまらない。
自分がどれほど、彼にとって必要でないのかを、はっきり見せつけられているようだった。
「父上ーーーーっ!!」
葛原の慟哭が、広い寝室に響き渡る。
菰野は、その悲しげな声に胸をじわりと締め付けられた。
義兄は最初で最後の支えを失ってしまった。
もう、この世で彼を気にかける者は自分しかいないのではないか、と菰野は思う。
けれど、自身は、その兄に疎まれていた。
確かに距離を取られている。
けれど、まだ嫌われているわけではないと、菰野は内心思っていた。
葛原が菰野を見る目には、嫉みや悲しみこそ滲んでいたが、嫌悪の色が映る事は未だ無かった。
「父上……」
葛原の声が、徐々に小さく、涙に濡れて溢れ落ちる。
見れば、医者も女官も、譲原から一歩離れていた。
菰野は、譲原の言葉を思い返す。
『最後の頼みを……聞いてくれるか?』と父は言った。
何だって、聞くつもりでいた。
けれど、父はそれを告げることなく、逝ってしまった。
(……最後の頼みを、伺いそびれてしまったな……)
久居は、主人の靴を濡らした雫に気付く。
けれど気付かぬフリをして、視線を戻した。
菰野は、溢れる涙を、もう止められなかった。
せめて声を漏らさぬよう、歯を食いしばる。
自分が泣けば、きっと兄はそうと見せずに心を痛めるだろう。
孤独な兄を支えたい。
菰野はずっと、そう思い続けてきた。
……本当は、父に、兄を救ってほしかった。
けれど、もうそれは叶わない。永遠に……。
いつも優しかった譲原の笑顔だけが、胸に広がる。
自分は置いて行かれたのだと、心が理解する。
(父上……)
菰野は、母の元へ逝ってしまった父に縋るように、胸の内で呼んだ。
作品名:Evasion 1巻 和洋折衷『妖』幻想譚 作家名:弓屋 晶都