~王を導く娘~観相師
だったら、後宮の大勢の妃たちの前では、どんな顔を見せるのだろう?
ふと考え、明華は慌てて想いを打ち消した。
この男が後宮で妃たちにどんなに調子よく振る舞っていたとしても、私には所詮関係のない話だもの。
「今夜は愉しかった」
ヨンは短いひと言を残し、去っていった。
ふと我に返った時、明華はたった一人、みすぼらしい家の前に立っていた。
少しガタついている扉を開き、中に入る。家の中は静かすぎるほど静かだ。火の気もない寒さが身に迫るような気がして、明華は四日前から出したままにしている父の胴着を羽織った。
かすかに清涼感のある爽やかな香りがするのは、きっと、あの男の残り香だろう。明華は知らず胴着の前をかき合わせ、握りしめた。
ひと度、優しさを知れば、もう二度と優しさを知らない頃の自分には戻れない。ヨンに家の前で降ろされたときに感じた想いがまたわき上がる。
明華は室の壁に寄りかかり、眼を閉じた。先刻、観た映像をもう一度瞼に蘇らせてみる。彼と出会った日に観た映像も衝撃的ではあったけれど、今日の比ではなかった。
一体、一連の傷ついた龍の姿は何を意味するのだろうか。眉根を寄せ、きつく眼を閉じ、更に自らの深層意識に分け入ってゆく。それは水底(みなそこ)深く深くへと潜ってゆく感覚にも似ている。
明華は極限まで神経を研ぎ澄ませ、自らの意識の核まで降りていった。やがて、ある一つの結論が彼女の中に示される。さながら、一面の闇に小さな光が点ったような感じだ。大抵、明華の中で?読み解かれた未来?は、そのような形で現れる。
かすかな、本当に息を吹きかけただけで消えてしまいそうな儚い光を頼りに、自分が観た映像を照らし合わせる。そうやって依頼者の未来を解き明かすのが明華のやり方である。
もちろん、母から譲り受けた骨相書などはすべて読破しているから、例えば顔、骨格の特徴ごとに人柄、辿る運命など容易く述べることはできる。しかし、それだけでは所詮は指南書を忠実におさらいしているだけにすぎない。
真の観相師は、骨格だけで未来を占いはしない。依頼者の向こうに観た?未来図?が何を意味するのか読み解き、最後に顔立ちの特徴などを副次的に照合させ、結論づけるのだ。
いわば、指南書に書かれている骨相ごとの特徴などは、おまけのようなものだ。
その意味で、やはり、観相師は生まれながらに霊力が備わった者でなければ務まらないともいえた。観相師を生業とする者たちの実は大半以上は指南書通りのもっともらしいことをのべ立てているにすぎない。
その意味では、指南書を諳んずるほど熟読すれば、誰しも観相師になれる。
明華はゆっくりと息を吐き出した。たった今、自分が辿り着いたばかりのイ・ヨンの?未来?に押しつぶされそうだ。
最初に観た片眼を射貫かれた龍、そして今日、観た満身創痍の龍。あれは、ヨンにとって、どちらも良くない兆候を示すものだ。明華が導き出した彼の未来は?暴君?と?廃位だった。しかも、はっきりと出ているわけではないけれど、?暗殺?という言葉も観えた。
暗殺されるかどうかまでは、今の時点では確たることは判らない。だが、その可能性は大いにあるといったところか。更に、彼が将来的に暴君と見なされ、廷臣たちに愛想を尽かされて廃位されるーというのは、現在では動かしがたい未来として読めた。
ーこのままでは、あの方は後世に名高い暴君となる。
明華の眼から、ひと筋の透明な涙が流れ落ちた。未来を読み解いた明華自身さえ、信じられないことだ。
明華の前に現れた彼は、どこまでも優しかった。観相師だからと蔑んだりもせず、対等に接してくれたし、気遣いも示してくれた。
風燈祭の提灯には、迷わず民の安寧を願った王。そんな王が暴君になるというのか。
いやと、明華は暗澹たる気持ちになった。燕海君が?暴君?になるのは遠い未来のことではない。政治に関心を示さないのは前王も今の王も同じだ。違うのは燕海君が武芸に秀で健康すぎるほど健康、精力的に日々、後宮の側室たちと淫事に耽っている点だけである。
多くの女たちと関係している割には、燕海君にはいまだに御子の生誕もなく、一部では
ー荒淫が祟って、かえって御子がおできにならないのだ。
と、不敬な噂が飛び交っている始末だ。
政には見向きもせず、後宮に日がな入り浸っている女好きの王を、心ある廷臣たちは?新たな疫病神?だと嘆じているという。前の成祖は病弱で王としても無能だった。燕海君は幼い頃から聡明で知られ、登極時は皆から期待されたものだ。今度こそは聖君を戴いて新たな世を創るのだと、廷臣一同が新しい王に期待を寄せた。
しかし、望みは儚く潰えた。
ーこれでは、まだ前王の世の方がマシではないか。
臣下たちのある者は憂い顔で、ある者は怒りを禁じ得ず語った。
成祖は政治に無関心で臣下たちに任せきりだったから、政は議政府の三政丞以下、熟練の官僚たちによって滞りなく動かされていった。だが、今の王はなまじ才気があるだけに、余計に始末が悪い。自らは政治を臣下に丸投げな癖に、何かと口を挟んでは政治を滞らせる。
虚弱だった成祖は後宮の女たちに見向きもしなかったが、燕海君は旺盛な精力で日々、女たちを閨で喘がせている。王の寝所からは夜ごと、女のなまめかしい声が絶えず、扉外で宿直(とのい)をする内官や女官たちは一晩中、嬌声を聞かされて堪ったものではないとか。
王の一番の任務は、言わずと知れた子作りである。後宮は世継ぎを生み出し、はぐくむ場所でもあるのは言うまでもない。
政治に関心がないのなら、せめて余計な口出しをせず、せっせと次代を担う世継ぎを作ってくれればまだ良いものを、あまりに女好きが祟ってか、十数人いる側室たちは一度として懐妊さえしない。
血筋のなせる業か、成祖も燕海君も女運はすごぶるつきの悪さだった。成祖は世子時代に迎えた正室がいたが、王位について数年後に王妃は崩御。燕海君に至っては、正妃を迎えたことすらない。周囲が幾ら勧めても、側室だけで事足りていると、山と積まれた名家の姫君たちの身上書には見向きもしなかった。
ー蝶よ花よと大切に育てられた深窓の令嬢は、とんでもなく我が儘で権高だ。お祖母(ばあ)さまだけで十分ではないか。
子どもの頃、寛徳大王大妃は幼い燕海君には殊更厳しく、学問ができないというだけで鞭をふるった。いわば、現王は感情の起伏の激しい祖母には振り回されて育った。
まだ若い王がどれだけ薦められても、妻帯しない背景には、どうやら幼時の苦い体験があるようだ。
政治には無気力で、大の女好きの王を、既に暗君、暴君と呼ぶ輩はけして少なくはない。
明華は眼を瞑った。もし、ヨンが国王であるともっと早くに気づいていれば、彼女は間違いなく提灯にはもっと別の願いを書いた。
ーこの方の未来が光に満ちあふれた穏やかなものでありますように。
何とかして、ヨンの未来を変えられはしないだろうか。いつしか明華の思考は観相師として絶対に犯してはならない領域に入ろうとしていた。
あの方を悪しき運命から救いたい。気がつけば、その想いが急速に膨らんでいる。
昔から優秀な観相師である母が言っていた。
作品名:~王を導く娘~観相師 作家名:東 めぐみ