~王を導く娘~観相師
どうやら先ほど、他人の願い事を読んでは駄目だと明華が言っていたことに拘っているらしい。
「そなたの名前、確か明華といったが」
「はい、そのように申し上げました」
「提灯には名前も記されていた。私の見間違えでなければ、?恒娥?と書かれていたが」
物問いたげなまなざしにぶつかり、明華は微笑む。
「私の本当の名は恒娥なのです」
「恒娥とは、月宮に棲まうという伝説の美しき姫の名前では?」
明華はクスリと笑った。
「そうなんです。だから、普段は明華と名乗っているんですよ」
「何故?」
真剣な表情で問われ、明華は応えた。
「だって、完全に名前負けしていますもの」
「名前負け?」
ヨンは腑に落ちないといった様子である。
「恒娥は若さまも言われた通り、月の都に住むという麗しい姫君です。そんな高貴で美しい姫さまと私が同じ名前だなんて、罰当たりも良いところですよ」
明華は小さな唇を尖らせて言う。ヨンの視線がいつしか彼女の珊瑚色の唇に吸い寄せられているのにも気づいていない。
「若さま?」
ヨンが上の空なのに気づき、明華は不審げに呼んだ。
「あ、ああ、済まない。つい考え事をしていた」
ヨンが慌てて彼女から眼を背けた。
「罰当たりだなどと思う必要はないだろう。明華が月宮に棲まう恒娥の生まれ変わりだと言っても、私は信じる」
「ーえ」
大真面目に言うヨンに、今度は明華が固まった。大きな眼を見開く明華に、ヨンは盛大な咳払いでごまかした。
「まあ、その、明華は月の姫にも勝るとも劣らず美しい。そういうことだ」
「お世辞でも嬉しいです」
明華もまた生真面目に応え、ヨンは溜息をついた。
「お世辞ではないというに。まあ、明華の自分の美しさを自覚していないところが私は好きなんだが」
最後の方は小声だったので、当の明華に聞こえなかったのは幸いであった。もし彼女が聞いていたら、更に頬を紅くしたに違いないであろうから。
彼が言い終えたのと、周囲から低いどよめきが洩れたのはほぼ同時のことだった。
つい今し方まで煌々と夜の闇を照らしていた無数の提灯が一斉に消え、辺りは一面の闇に塗り替えられている。
「見てごらん」
ヨンが指さした方角を見やると、灯りを点した風燈が次々に夜空に舞い上がってゆくところだった。闇に覆われた真冬の夜空を無数の風燈が飛翔してゆく様は圧巻ともいえる。
明華とヨンの周囲の人々も立ち止まり、息を呑むような光景に言葉もないようだ。
まるで夜空を何羽もの蝶が天に昇ってゆくような光景に、明華は呼吸も忘れてしばし魅入った。まるで夢のような儚くも美しい光景だ。
しかも、隣には何故かまだ知り合ってまもないのに、心から面影が離れない男がいる。何故なんだろう、今日やっと彼の名前を知ったばかりなのに、もうずっと前から知っているような気がする。
どころか、ずっと以前から彼と出会うことが決められていたような気さえすると言えば、他人は笑うだろう。観相師は自らを占うことはできない。観相とは顔を通して真実を見極めることだ。しかしながら、鏡で自分の顔を観て未来を読もうとしても、不思議なことに混沌とした白い靄に包まれ、自分のゆく末は読めない。
恐らく、知らない方が良いのだろう。明日、自分がどうなるかなんて判っていても、面白くも何ともない。
今はただ、この一瞬一瞬を大切にしたい。二度とは逢えない男だと諦めていたひとと共に、夢のような美しい夜を過ごす幸せを与えられたことに感謝したい。
ー私は、この夜を一生忘れない。
これから先、自分も誰かの妻になるかもしれない。それでも、たとえ彼ではない別の男と生涯を歩くことになったとしても、この夜の想い出は宝物となり、心を温めてくれるに違いない。
明華が想いに耽る傍らで、ヨンもまた何かしらの想いに囚われているようであった。
「何故、恒娥なのに、明華と名乗るようになったんだ?」
ヨンの声が明華の物想いを破った。明華は瞳をわずかにまたたかせ、彼を見上げる。
ヨンの視線は明華ではなく、漆黒の闇夜を流れてゆくあまたの風燈に向けられていた。
明華もまた彼にならい、冬の夜空を見上げる。
「私が小さい頃、隣に明華という綺麗なお姉さんがいたんです」
「そうなのか?」
ヨンが興味を惹かれたように、明華を見た。明華は考えつつ、ゆっくり話す。
「私が暮らしている界隈は、皆、似たような境遇の家族ばかりです。隣の家族も両親と七人の子だくさんで、明華お姉さんは二番目だったと思います」
何分、大昔の幼い頃の記憶なのでと断ってから、明華は当時を懐かしく振り返った。
隣の明華は十八で嫁に行った。嫁ぎ先は知らないが、恐らくは似たようなその日暮らしの若者であったろう。
「嫁いですぐに赤ちゃんができたんですけど」
明華はどこか遠い瞳になった。次に話し出すまでのわずかな間合いから、ヨンは話の展開をおおよそは察したようである。
それでも、先を急かすこともなく、彼は黙っていた。
「いざお産が始まったら、それはもう物凄い難産で。お姉さんは結局、三日三晩苦しみ抜いて、赤ちゃんは生まれずじまいで二人とも亡くなってしまいました」
「ー」
「あまり縁起の良い名ではなさそうだが」
ヨンの言葉に、明華は微笑んだ。
「明華お姉さんは、本当に優しくて心の綺麗な女(ひと)でした。私はその頃、五つ六つだったと思います。一人っ子で遊び相手のいない私を、お姉さんは自分の弟妹たちと同じように一緒に遊んでくれたんです」
「明華にとっては、実の姉のようなものだったのだな」
「はい。肌は漢陽に降り積もる雪のように白く透き通るようで、道を歩いたら誰もが振り返るような美人でもありました。私の憧れの女性です」
「それで、明華と名乗るように?」
「ええ。明華お姉さんが亡くなった後、お隣の一家はご主人の実家に引っ込むとかで、家移りしてゆきました。その頃からです、私が明華と名乗るようになったのは」
「一つ訊ねても良いだろうか」
遠慮がちに言われ、明華は大きな瞳を見開いて彼を見つめる。
「そなたは隣に住んでいた明華の運命を観ることはできたのか?」
明華は小首を傾げた。
「観ようと思えば観えたとは思います」
「やはり、未来というのは意識しないと観えないものだろうか」
「そうーですね。大抵の場合、観相師は観相をする時、自分の意識を相手に全集中させるものです。ゆえに、一人の観相をした後は、倒れ込むほど体力を消耗するときもあります」
「そなたが四日前、私の観相をした後に倒れそうになったのは、やはり力を使い果たしたからであろうか?」
「それもあるとは思いますが」
明華は言葉を曖昧に濁した。四日前の話が出れば、嫌でも思い出してしまう。彼の観相をした直後、観てしまった禍々しい映像を、緑の美しい龍が片眼を矢で射貫かれて苦しむ光景だった。
ヨンに告げたことは、半分は真実でもあり、半分は偽りでもある。観相は確かに観る相手に観相師自らが意識を向けて行うものだが、時として観相師が意図せず、無意識で相手の未来を観てしまうこともある。まさに、四日前、明華が観た傷ついた龍がその典型だ。
作品名:~王を導く娘~観相師 作家名:東 めぐみ