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~王を導く娘~観相師

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 本当にいやだ、おかしいわ。熱くなった頬に手を当てつつ歩く。つい想いが声に出てしまった。向こうからやってきた両班らしい老人は胡乱な眼で明華を見て、通り過ぎた。
「可哀想に、可愛らしい顔をしているのに、ここがイカレておるようだ」
 大きな荷物を担いだ下僕に舌打ちしているのがすれ違いざま聞こえた。
 どうやら、頭のおかしい娘だと思われたらしい。明華は肩をすくめ、道を行く通行人に混じって宮殿への帰り道を急いだ。

 明華は小さく息を吐き出し、手のひらを胸に添えた。ヨンに逢うのは九日ぶりである。
 何故、彼が急に自分を呼び出したのかは謎だが、好きな男に逢えるのは年頃の娘としてはやはり嬉しい。
 明華を訪ねてきたのは、見知らぬ若い内官であったが、彼はヨ内官の遣いだと言った。その時、明華の脳裡に精悍な偉丈夫であり、国王の信頼も厚いヨ内官の風貌が蘇った。
 ヨンが大王大妃に毒殺されかかった時、ヨ内官の働きは見事だとしか言いようがなかった。彼はヨンに命じられた通り、国王は軽い頭痛がするため、定例の御前会議も欠席し、大殿の寝所で静養すると公表した。
 自身は空の寝台を守るべく、寝所扉前でいつもにも増して厳重な警護を装った留守居を務めた。ヨンが小康を取り戻し大殿に還御するまで、ヨ内官は一時たりとも扉前を動くことはなかったのである。
 ヨ内官の下で働く内官であれば、間違いはない。内官から手渡された縦長の封筒には一枚だけ紙片が入っており、流麗な手蹟で
ー例の場所にて待つ。
 と記されていた。香がたきしめられているのか、薄様の美しい紙からは、かすかに良い香りが漂った。
 まるで秘密の逢い引きの誘いのようだと、また頬を熱くした明華だったがー。
 明華が到着した時、既にヨンは先に来ていた。見憶えのある広い背中が視界に入った途端、トクンと心臓が撥ねる。
 けれど、今日は浮かれてばかりもいられないのだと自分でも知っている。
 大王大妃に施した浄心の術は成功した。明華の目的は考えられる最高の形で達せられたのである。つまり、自分がもう王宮にいる理由は何らない。
 明華はもちろん王宮の下働きで一生を終えるつもりはないのだ。母の跡を継いで観相師となったからには、この道で生きてゆこうと考えている。その意思は固かった。
 ゆえに、そろそろ暇を願い出ようかと思案しているところでもあった。
 王宮を出るときは、恋しい男との別離であるのも承知している。信じられないことに、どうやらヨンもまた自分を好きでいてくれるのが判り、両想いなのだと知ったばかりだ。
 でも、自分たちの恋に未来はない。
 下町に生きる観相師と国王では、生きる世界が違いすぎる。明華が観相師の道を諦めて後宮で暮らす覚悟があるならばともかく、二人の歩く道に接点はない。
 たとえ我が儘と言われようと、明華は恋のために志を曲げるつもりはなかった。むしろ、恋と志どちらを選ぶかと問われたら、志を選ぶだろう。
 ヨンと過ごした時間は短いものだったけれど、密度の濃い日々だった。去年の終わりに彼が下町で観相を依頼してきたときから、自分たちの縁は繋がった。
 あれから四ヶ月、明華には随分と時間が経ったように思える。それもそのはずで、真冬のただ中であった季節は三月半ばとなり、そろそろ都に桜便りが聞こえる春が近づいている。
 季節のうつろいを物語るかのように、かつてユン氏が暮らしていた殿舎の庭には紅梅が匂いやかに咲いている。
 純白の椿もまだわずかに花をつけているものの、今は紅梅が盛りだ。連なるように枝についた真紅の梅がかすかな香りを振りまいている。
 ヨンは両手を背後で組み、熱心に紅梅を見上げていた。あの広い背中を見ることももうないのだと思うと、不覚にも涙がこぼれそうになる。
 こんな弱気で、これから彼の顔を見ないで生きてゆけるのかと心配だ。
 足音が聞こえたのか、ヨンが振り向いた。今日も白皙の美貌に紅い王衣が心憎いほど似合っている。
 実際に彼の顔を見るまでは心配していた。ヨンは十日前、かなりの量の猛毒を盛られている。詳細までは判らないが、彼のあのときの苦しみ様から察するに、恐らくは致死量の毒だったのではないか。
 だが、今日、彼の表情は至って晴れやかで、顔色は健康そうに輝いている。心配していた毒の後遺症は何一つ感じられなかった。
「来たか」
 ヨンの顔が心なしか歓びに光ったような気がするのは、私が自惚れているから?
 明華がつられるように微笑むと、ヨンの頬がうっすらと染まった。
 何故か眩しいものでも見るかのように明華を見つめ、彼女の不思議そうな視線に気づくと、ウォッホンとわざとらしい咳払いをする。
「殿下、風邪でも引かれたのですか?」
 心配になって問うと、彼はますます紅くなった。
「いや、これは、そなたの可愛い顔に見蕩れていたからーで。あ、いや、そうではなく、見事な梅に見惚れていたからだ!」
 早口でましくたて、ヨンはふと表情を引きしめた。
「今日、呼んだのは相談したいことがあったからなんだ」
「何でしょうか」
 明華の視線にまたかすかに頬を染め、ヨンは視線を梅に戻した。
「大王大妃が逢いにきた。腕利きの観相師がいるゆえ、是非にも一度、未来を観て貰えと勧められた」
「ー」
 言葉もない明華に、ヨンがやや鋭さの増した声で言う。
「その観相師というのは、言わずもがな、明華のことだな?」
「多分」
 消え入りそうな返事だ。ヨンが眉をつり上げた。 
「何ゆえ、大王大妃がそなたの存在を知っている?」
 明華は腹を括った。彼の前から去ろうとしている今、隠し事はしたくない。
「大王大妃さまには何度かお逢いしました」
「どうして、そなたが大王大妃に逢う必要がある?」
「それはーお話しできません」
 明華はうつむいたまま言った。ヨンが静かな声音で言った。
「私が知りたいと申してもか」
「はい」
 明華の声にいつにない頑なさを感じ取ったのか、ヨンは嘆息した。
「では、質問を変えるとしよう。大王大妃がここ数日、別人と入れ替わったのかと思うほど変わったという評判を聞いたか?」
 これには応えなかった。ヨンが溜息をついて続ける。
「昨日は、章興君を弟夫婦の許に返したそうだ。かと思えば、今度は私の許をいきなり訪ねてきて、にこやかに腕利きの観相師の話をする。まるで、二十一年間の対立など帳消しになったかのような友好的な態度だ。最初は私もどんな下心があるのかと警戒した。さりながら、どうも大王大妃は本当に変わったらしい」
 ヨンはしばらく口を噤み、また話し出した。
「おかしいと思わないか? 見ていて、私も本当に別人としか思えない。若く見えるが、大王大妃も歳だ。ついにぼけたか、はたまた、本当に改心したのか」
 明華はもう顔を上げられなかった。
「そなたが観相師として一流なのは、私自身、身をもって知っている。何しろ、猛毒にあたった私を瀕死の床より救ってくれたのだからな」
 明華、と、深い声で呼ばれ、明華は知らず彼の顔を見上げた。
「いつぞや、そなたは私の運命を変えるとか言っていたな」
 刹那、ヨンと彼女の視線がぶつかる。
ー駄目、瞳の底を覗き込まれたら、もう真実は隠せない。