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~王を導く娘~観相師

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 倭国渡来の書には書かれていた。?浄心の術?を受けた者は、内に巣喰う邪心を払い、善き心に変えることができる。しかしながら、闇が深ければ深いほど、術を受けたときの苦しみは半端ではなく、もんどり打たねばならないそうだ。
 つまり、内に巣喰う邪悪なるものが外に出てゆく時、耐えがたい苦痛となるのだろうと、明華は見当をつけていた。あまりに救いようのない悪心を持つ者は、激痛に耐えかね時に生命を失うこともごく稀にではあるが、あり得るとも。
 明華の鈴を持つ手が戦慄く。術を受ける大王大妃も苦しむのと同様、術を施す明華自身も相当の気力を使う。それほど難度の高い術であるともいえた。
 チリリン、チリリン。かすかに聞こえていたはずの鈴の音が次第に高まり、ついには室中に鳴り響くほど大きくなった。ただし、この音色は明華と大王大妃以外には聞こえない。
 水琴鈴のこの音色こそが浄心の術を引き起こすのだ。今、長年、大王大妃の中に積もりに積もった邪悪なるものが体外へと排出されようとしている。
 邪悪で凝り固まった心の持ち主ゆえに、大王大妃が今、受けている苦痛は相当のものであるのは判っていた。恐らく頭は割れそうに痛み、全身が引き裂かれる激痛を味わっているに違いない。
「うっ、うわああー」
 髪を振り乱し、のたうち回る大王大妃が断末魔にも似た悲鳴を上げて倒れ伏した。流石に異変を感じたのか、隣室から尚宮の声がする。
「大王大妃さま、いかがなさいましたか、大王大妃さま!」
 慌てた尚宮の声が近づき、明華は左手をひろげ隣室へと続く扉に向けて気を放った。
「結界!」
 本当は浄心の術を使う最中に、別の術は使いたくない。集中力が分散されるのは術の効果を一定に保つためには好ましくない。
 だが、今、尚宮に入ってこられては折角かけた術が解けてしまう恐れもある。明華は咄嗟に隣室と居室の間に簡易な結界を張った。
 結界は、判りやすくいえば、こちらへ入ってこられない見えない柵のようなものだ。魔除けの結界は守護札などを予め作り、札を貼った上で更に入念な術を駆使して、堅固な結界を張るのだが、今はとりあえず簡単なもので良い。
 尚宮の呼び声が次第に遠くなり、聞こえなくなった。
 明華は途切れかけた意識を己れの両手に戻し、集中力を更に高める。リンリンと鳴り続ける鈴の音がいっそう高くなった。
 明華の意識はそこで途切れた。華奢な身体がパタリと床に倒れ、動かなくなった。

 いつしか明華の周囲は、どこかの山里の風景と化していた。長閑な風景は無性に懐かしさをかき立てるが、むろん、現実に見たことはないものだ。
 鄙びた農村の外れらしいそこは、小さなせせらぎの袂に水車小屋があり、清らかな水の音と共に水車が軋みながら回る音までが聞こえている。
 水車小屋の傍らに、一本の桜の大樹がひっそりと立っている。樹齢何百年も経過しているであろう古木は今、薄紅の霞みに包まれたようだ。
 桜が満開であるからには、季節は春たけなわなのであろう。それにしても何故、自分がこのような山里にいるのか、しかも、季節はまだ漸く早春であったはずなのに、今が春の盛りなのか。皆目見当がつかない。
 心のどこかでは、これが現ではなく、幻の世界だと判っていながら、水しぶきを上げて回る水車の音、絶えることない小川のせせらぎーすべてがあまりに現実感がありすぎる。
 明華が周囲を窺うように視線を巡らせていると、ふと一陣の風が吹き抜けた。
 突風に思わず顔を伏せた彼女の周囲で、桜の花びらが一斉に舞い上がる。桜貝のような花片が風に巻き上げられ、踊り狂いながら宙を舞う。
 ひらひらと狂ったように舞い踊るピンクの花びらが、明華の髪に肩に降り積もる。
 明華は手のひらを額にかざし、周囲の風景をよく見極めようとしたーその時。
 周囲の風景が一転した。あたかも仮面劇の舞台が暗転するかのように、一瞬にして自分を取り巻く風景が変化する。
 のんびりとした農村の風景は消え去り、果てなく続くのは一面の白い霧ばかりだ。
 水車小屋も、せせらぎも、満開の桜もすべて消え去った。明華は衝撃のあまり、眼を見開いたまま白い霧を凝視(みつ)める。
ーこれは一体、何?
 彼女の疑問に応えるかのように、天から白いものが舞い降り始めた。
 ひらひら、ひらひら。
 明華は掌(たなごころ)を開き、天から降りてくる花びらを受け止める。最初は薄紅の桜の花びらであったそれは、小さな手の上で雪に変わり儚く溶ける。
 彼女は空を振り仰ぐ。確かに降り注ぐ無数の花びらは雪ではなく、ピンクに染まった花びらであるのに、舞い降りるやいなや、雪になって溶けてしまう。
 不思議なこともあるものだと思った。
 やはり、今、自分が立っている場所は現の世界ではないようだ。
 だとしても、農村の風景に身を置いていたときと同じで、手のひらには花びらのやわらかさも雪の冷たさも感じられる。妙に現実感のある幻であった。
 もしかしたら、ここは現でもなく、幻でもない場所なのかもしれない。母がよく話していたっけ。
 この世でもなく、あの世でもない場所、つまりは生きる者の国と死者の国の狭間がどこかに存在すると。では、我が身は今、彼岸と此岸の境目にいるのだろうか。
 ということは、浄心の術に失敗した?
 観相師としてまだ未熟すぎるがゆえに、たいそうな術を使い切れなかったのだとは考えられる。術者が施術に失敗した際、生命を失うのはままあることだ。
 ああ、私はもうすぐ死ぬのだな。いや、もう既に死んでいるのかもしれない。
 ヨンへの恋心ゆえに、いまだ現し身を離れた魂が死者の国にゆけず、生者と死者の境目にとどまっているのだろう。
 どこか他人事のように考えていると、ふいに天がぽっかりと割れ、ひと筋の光が降り注いできた。
ーっ。
 明華が弾かれたように天を見上げるのと、眩しい幾筋もの陽光が眼を射たのはほぼ時を同じくしていた。
 どこまでも白い霧に包まれていた周囲の空間は、気がつけば陽光に溢れている。次々と起こる変化についてゆけないまま、明華は自自分の身体が信じられないほど軽やかになるのを自覚する。
 極限まで身体が軽くなったーと思った瞬間、彼女は眼を開いた。
 意識を取り戻した時、明華は大王大妃の居室で倒れていた。慌てて身を起こせば、大王大妃もまた文机に打ち伏した格好で失神している。
 明華は立ち上がり、ふらつく身体を気力で支え大王大妃の側に行った。打ち伏している大王大妃の口許を手をかざせば、呼吸はちゃんとしている。手首の脈も安定しており、何ら懸念はなかった。
 とりあえず、成功はしたらしい。明華は跪き、大王大妃の眉間に軽く指を添える。
 いまだかつて試したことのない大がかりな術を行い、体力はほぼ使い果たしている。自分でも立っていられるのが不思議なほどだが、気力で何とか踏ん張っているのだろうことは判った。
 残りわずかな力を振り絞り、明華はやや強めの気を大王大妃に送り込んだ。ほどなく、大王大妃の瞼が震え、ゆっくりと瞳が見開かれる。
 明華は文机を間に、最初に座っていた位置に戻っていた。大王大妃は文机に手を置き、ゆっくりと身を起こした。
「私としたことがよう眠っておったようだ」