~王を導く娘~観相師
ヨンから話を聞いている中に、明華はいつしか泣いていた。
どこまで心優しく、可哀想なひとなのか。
国王に毒を盛ったとなれば、発覚すれば極刑に処されるのが当たり前だ。なのに、彼はみすみす自らを毒殺しようとした妃の罪を見逃そうとしている。
もしかしら、ヨンのその優しさには妃への幾ばくかの情もあるのかもしれない。そう考えただけで、どす黒いものに心が染まりそうになり、明華は愕然とした。
私はいつから、こんな醜い考え方をするようになったのだろう。ヨンが自分以外の女にわずかな優しさを示しただけで、嫉妬してしまうような、嫌な女に。
だが、今は、自らの想いに浸っている場合ではなかった。明華はヨンが袖から取り出した紙包みを開き、中に入っている粉薬を飲ませた。
いつ毒殺されるか判らないため、常に万能の解毒剤を持ち歩いているのだという。それから夜の闇に紛れ、大殿まで走った。
国王が起居する大殿は、まるで巨大な魔物のように夜陰にそびえたっている。明華は夜の中をひた走り、大殿の入り口に控えている内官の一人に、ヨ内官を呼んで欲しいと頼んだ。
最初、内官は明華を下働き風情と軽んじ、相手にもしなかった。押し問答をしている中に、扉が開いて目鼻立ちの整った偉丈夫が現れた。内官は男性機能を失っているため、大半は、のっぺりとした中性化した風貌を持つものだが、この男は武芸でもたしなむのか、逞しい体躯をしている。
内官と言われなければ、判らないほどで、つるりとした髭がない口回りが唯一、彼が内官であると物語っている。
「私がヨ・シギョンだが」
名乗った内官を人気のない場所まで誘導し、明華は小声でヨンの伝言を告げた。
ヨ内官の整った顔から血の気が引く。
「それで、殿下は今、どうなさっている? ご無事なのか」
急き込んで言われ、明華は頷いた。
「いつも持ち歩いているといわれる解毒剤を飲まれました」
ヨ内官が憂い顔で呟いた。
「あの解毒剤は確かに万能で、どのような毒にも対応できるが、その分、効きが弱い。一番良いのは、内医院の医官に診させることなのだが」
明華は小声で言った。
「殿下は、ご自分の状態があまり良くないことを大王大妃さまに知られたくないようです」
ヨ内官が驚愕したように明華を見た。
「殿下は、そのようなことまで、そなたに話されたのか」
そして、溜息をつく。
「確かに、何らかの危急の事態がありしときは、崔明華というムスリの娘に連絡役を任せるとはおっしゃっていたが」
ヨンがヨ内官に話していた内容を聞き、明華は心の奥が暖かくなった。ヨンはそこまで自分を信頼してくれていたのだ。
「どうしたものやら」
顔色のないヨ内官に、明華は言った。
「内医院の医官さまに私のところにお越し頂くことはできませんか?」
ヨ内官は難しい表情で首を振る。
「それは無理だろう。大王大妃さまは当然ながら、王宮内の動きを注視しているはずだ。内医院の医官が動けば、殿下の居所を彼らに教えるようなものだ」
ヨ内官の言葉は道理だ。万に一つ、弱っているヨンの息の根を大王大妃が一挙に止めようとし、刺客など寄越したらひとたまりもない。
明華は考えつつ言った。
「私のところで、できるだけのことはしてみます」
「そなたは医術の心得はあるのか?」
端から期待はしていなさそうな口調である。明華は少し迷い、この男であれば真実を告げても問題はないと判断する。
「医術の心得はない素人ではありますが、私は観相師です。別の方面からの治療はできるかもしれません」
「何と、そなたは観相師なのか」
どこから見ても年端もゆかぬ娘と観相師が結びつかないものか、ヨ内官は切れ長の瞳を見開いて、心底愕いている。
「できる限りのことをしてみます」
「殿下を頼んだぞ」
明華はヨ内官に一礼し、また夜の中をひた走って自室に戻った。
あまり長い時間、ヨンを一人にしておきたくはない。それでなくとも、室を出る時、彼の顔は蒼白で呼吸も苦しそうだった。
チマの裾を蹴立てるようにして室に戻った時、ヨンは眠っていた。
明華は彼を起こさないように扉を閉め、枕辺に座った。
やはり顔色は依然として思わしくない。今や彼の秀麗な面は蒼褪めているどころか、土気色だ。
明華は焦燥感と共に強い不安を抱いた。この顔色は、解毒の薬があまり効いていない兆候ではないか。ヨ内官の心配したように、何にでも対応できる万能の解毒剤はそれだけ効果も弱いのだろう。
明華はまだ年も若く、観相師としても駆け出しだ。幾ら能力があると評判でも、自分ではけして一人前だとは思っていない。
章興君のときのように、子どもの引きつけを治したことはあれども、猛毒の解毒など行ったことがないのだ。どのような場合でも同じことがいえるが、未熟な者が術を施せば、かえって容態を悪化させるどころか、最悪、死に至らしめる危険性もある。
ヨ内官には、できるだけのことをすると言ったものの、いざ未熟な自分が解毒の術を使うとなれば自信はないのだ。
けれどー。明華は、ひたすら眠るヨンを切ない想いで見つめた。このまま何もしなければ、もしかしたら彼は生命を失うかもしれない。明華の瞼に、片眼を射貫かれた龍が蘇る。
今、彼が息絶えたとしたら、やはり?暗君?として彼の名は歴史書に残るに違いない。
咄嗟に湧き上がった想いは、明確なものだった。
ーさせるものですか。
大王大妃の良いようにはさせない。思惑通りになるものか。
自分は誓ったのだ。天命に背いてでも、ヨンの未来を変えると。
明華はヨンにかけた上掛けをそっとめくり、彼が纏う龍袍の前紐を解いた。次いで下に着たチョゴリの紐も解くと下着が見えた。
本当は素肌に直接触れるのが良いけれど、流石に躊躇われた。明華は自らの手を伸ばし、ヨンの上にかざし、そっと腹部に手を当てた。
胃の腑があるのは、この辺り。だとすれば。
彼女は眼を瞑り、全神経を指先に集中させる。
毒にあたった場合、癒やしの気を注ぎ込むのは胃の腑に相当する場所だ。しばらく気を送り続けていると、やがて指先を当てた辺りがほんのりと暖かくなった。明華から送り込まれる気がヨンの体内に取り込まれていっている証だ。
自らの気を分け与えるわけだから、明華は裏腹に体力の消耗は著しい。根気よく気を送り続けた結果、次第に荒い呼吸がゆっくりと落ち着き、頬にもうっすらと赤みが戻った。
ホウッと、明華は息をついてヨンの腹部から手を離した。
成功したと思ったら、今になって怖ろしさと不安に手が震え出した。ホッとしたと同時に疲れが出て、明華はいつしかヨンの上に重なり、覆いかぶさるように眠り込んでいた。
意識を取り戻した時、ヨンは見憶えのない室にいた。何故、自分は大殿の寝所の見慣れた寝台ではなく、ここにいるのだろう?
不思議に思い、まだ重たい頭をかすかに動かした時、ヨンの身体に上半身を乗せるようにして眠っている娘に気づいた。
「ー明華」
ヨンは愛しい娘の名を宝物のように呼んだ。気配に気づいたのか、明華が飛び起きる。
「殿下、気づかれたんですね」
明華の大きな瞳から澄んだ雫が流れ落ちた。
作品名:~王を導く娘~観相師 作家名:東 めぐみ