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~王を導く娘~観相師

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 陰陽師は、かなりの高度な技を持つ術士だという。遠い朝鮮で苦境に立ち入り、彼を救ったこの娘の魂の清らかさが彼には観えたのだろう。
 明華は唇を噛みしめた。
「その鈴を少しだけ、貸してくれませんか?」
 娘が鈴を握りしめた。
「これは、あたしの大切なものだから」
 明華は真摯な面持ちで告げた。
「今、困っている人がいるの。その人は、どうしても、この鈴が必要なんです。だから、少しだけで良いので、鈴を私に貸して貰えませんか」
 娘が父親と目配せしあった。父親は軽く肩をすくめ、知らん顔だ。
 娘の黒い瞳がじいっと明華を見つめている。父親に似て実直そうな瞳は、一点の曇りも無き春の空のように晴れている。
「必ず返してくれるよね」
「もちろんです。必ず、お返しします」
 娘が大きく頷いた。
「返してくれるなら、貸してあげる」
「ありがとうございます」
 はるばる倭国から来た術士が朝鮮にも心優しく、清き娘がいると与えた水琴鈴。この娘であれば、必ず貸してくれるだろうと予感はあった。
 娘が紐から鈴を外して、差し出す。
 明華は心から礼を言って、小さな鈴を大切にチョゴリの前紐に結びつけた。
 
 宮殿に帰り着いた時、既に浅い春の陽は、すっかり暮れていた。そろそろ王宮正門が閉まる刻限も迫っている。
 明華は袖から身分証明代わりの木牌を出し、門番に示してから宮殿内に入った。
 ムスリたちの殿舎に戻り、自室に落ち着いたのはもう外が宵闇に沈む頃である。明日の朝はまた早い。女官の仕事はかなりの重労働だが、最下級とされるムスリたちの仕事はなお厳しい。
 朝早くから日が沈むまで働き通しである。それでなくとも、今日は下町を歩き回って疲れた。明日に備えて今夜は早く寝もうと、明華は片隅に積んだ夜具を手早く敷いた。
 そのときだった。コトリという物音が外で響き、明華は弾かれたように面を上げた。
「ー誰っ」
 朋輩なら声をかけてから、扉を開けるはずだ。明華は胸騒ぎを憶え、低い声で誰何した。
 しかし、いらえはない。明華が全身に緊張を漲らせたその瞬間、扉が外から開き、訪問者が顔を覗かせる。
「殿下」
 あろうことか、訪ねてきたのはヨンだった。今日は紅い龍袍に冠をつけた王の装いである。変装もしないで国王が直接、女官の私室を訪ねるなど、考えられないことだ。
 国王が女官の室に入っただけで、誰かに知れれば?お手が付いた?と見なされる場合さえある。慎重な彼がそんなことも考えずに訪ねてくるとは思えないのだが。
 何か危急の用でもあるのかと思い、立ち上がった明華の前で、ヨンの身体がグラリと揺れた。
「殿下っ」
 明華は悲鳴のような声を上げ、倒れかかった彼の身体を辛うじて抱き留めた。長身の彼を小柄で華奢な明華が支えるのは正直、至難の業であったけれど、そんなことを言っている場合ではない。
「殿下、しっかりなさって下さい」
 耳許で囁きながら、何とか踏ん張って彼の身体を支えつつ夜具に誘導する。
 ヨンと明華は二人して倒れ込むように、夜具に転がった。
 ヨンの顔は蒼白だし、呼吸も荒い。これはただ事ではない。
 こんなときなのに、彼は苦笑めいた笑いを浮かべている。
「これが普通の状況なら、思わぬ役得だと思うところだな。明華と二人で一つ布団に入るなんて、滅多にない機会だ」
「馬鹿なことを言わないで」
 国王相手に相変わらず不敬な物言いである。ヨンが小さな声で言った。
「やられたよ」
 耳を彼の口許に近づけなければ、聞き取れないほどだ。
「一体、何があったというのですか!」
 訊ねると、ヨンが苦笑を深めた。
「大王大妃にやられた」
 彼は荒い息を吐きながら言った。
「前から怪しいとは思っていたんだ」
 彼の十六人の側室の中、一番の新入りが加わったのは一年前だ。むろん、大王大妃殿から送り込まれた女官であった。
「私だって、ただ殺られるのを待っていたわけじゃない。ちゃんと大王大妃殿に間諜を放っていた。手の者の報告では、その妃がしょっ中、大王大妃殿に出入りしており、大王大妃と密談を交わしているとのことだった」
 苦しいのか、少し休み、また続ける。
「三日前だったか、妃が懐妊したと告げてきた。正直、焦ったよ。子ができないように気をつけてはいるけど、万全とは言いがたい。もしかして本当に懐妊したのかと今日、妃を訪ねたんだ」
 悪阻が烈しいから、伏せっていると聞き、彼は内医院の医官に調合させた薬と南方から献上された珍しい蜜柑を持ち、見舞いに訪れた。
 ところが、懐妊は真っ赤な嘘だった。
「私が彼女の体調を心配して、医官を連れてきていたゆえ、懐妊は偽りだとバレた。だが、その時、私は医官の診察前に出された茶菓を口にしていた」
 つまりは、その茶菓に毒が仕込まれていたということだろう。
「面目ない。他の女絡みの、しかも子ができたかどうかの話なんて、明華の前でするべきではないと心得てはいるんだ」
 面目なさげに言うヨンに、明華は真剣な面持ちで首を振る。
「そんなことを言っているときではありません。お妃さまは、殿下が茶菓を召し上がったところを見ています。となれば、早晩、殿下がお倒れになることは予測しているのではありませんか」
「そう、だな。だから、ここに、明華のところに来たんだ」
 意外な言葉に、明華が眼を瞠った。
 ヨンが生気の無い瞳を彼女に向けた。
「毒を仕込んだ妃は、私が倒れるのを知っている。そして、妃に私の毒殺を命じた大王大妃もまた知っているということだ」
 明華と呼ばれ、彼女は更にヨンに近づいた。
「そなたに頼みたい。大殿にゆき、大殿内官ヨ・シギョンという者に、私が倒れたことを伝えて欲しい。ただし、彼以外の者にはけして悟られてはならない。彼に事の次第を伝えれば、二、三日なら私が大殿にいるとごまかしてくれる」
 明華はヨンに問うた。
「その方は信頼できる人なのですね」
「ああ、この広い王宮と呼ばれる伏魔殿で、私が信じられるのは二人しかいない。シギョンと明華、そなただけだ。だから、毒を盛られたと悟った瞬間、真っすぐにここに来た」
 ヨンが毒を盛られたと気づいたのは、妃の許を辞してほどなくであったという。嘘の懐妊報告をしたと国王その人に知られ、蒼白になっている妃を残し、ヨンは暗澹たる想いで大殿に向かった。
 この罪を公にすれば、妃を処罰せねばならない。だが、ヨンは静かな声音で震えている妃に言った。
ーそなたの生命を取ることはしない。病を得たことにするゆえ、すみやかに後宮を出て実家に戻るが良い。
 大王大妃の言うがままに彼女を妃として迎え、幾つもの夜を過ごした。身体だけの関係であったとしても、彼女が自分の妻であったことは変わらない。
 大王大妃に目を付けられるほど美しく、機転がきいたのが彼女の運の尽きで、彼女自身に罪はない。恐らく、これまで送り込まれてきたどの妃も似たような境遇で、親兄弟を人質に取られ、大王大妃の言うなりにされたのだ。
 彼女たちにとって、我が身はけして良い良人ではなかった。愛情どころか関心さえないのに、彼女たちを抱いたのだ。
 せめて自分が彼女にしてやれることは、犯した罪を不問にし、後宮から出して自由の身にしてやることだ。