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~王を導く娘~観相師

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 引きつけの症状が現れた時、この眉間から直接気を送り込むのが有効とされる。眉間は生命力が発露する場所であり、ここを起点に全身に気のエネルギーが循環すると考えられているからだ。
 もう一つの心臓とでも考えたら良いかもしれない。明華はしばらくの間、無心に自らの気を赤児に送り続けた。四半刻も経った頃、赤児はいつしか泣き止み、安らかな寝息を立て始めていた。
 唇も綺麗なピンク色に戻り、顔色も悪くない。傍らで心配そうに見守る乳母は、もう泣き出しそうな表情で明華に言った。
「ありがとうございます。王子さまのご様子が元に戻りました」
 明華が医官は呼ばないように言っていたため、室には二人だけだ。内医院の医官は朝鮮では最先端の医学を修めたエリートばかりである。彼らには、明華のような小娘が施す観相の術は胡散臭いものにしか見えないはずだ。また、一介のムスリが妖しげな術を駆使しているところなど、誰にも知られない方が良い。
 明華も赤児の様子が落ち着いているのを確認し、ホッとする。
「これで大丈夫だと思います」
 明華は頷き、尚宮に向き直る。
「尚宮さま、私が王子さまの治療をしたということは誰にも話さないで頂けますか?」
 尚宮がハッとした表情になった。
「もちろんです。あなたが望まないならば、私は他言したりはしません」
 もし王子に万が一のことがあり、生命を落としたりでもしようものなら、尚宮は監督不行き届きの責めを負わねばならないところだった。明華はいわば、王子だけでなく尚宮にとって生命の恩人でもある。
 従五品の高位の尚宮が最下級のムスリに対して、丁重な物言いなのも当たり前だった。
「そうして頂けると助かります」
 明華はどこか脱力した心地で言う。?気?を他者に分け与えるのは、かなり体力を消耗する仕事だ。そのため、よほどのことがない限り、行わない術ともいえる。だが、この場合、放置すれば、赤児の生命は危険であり、最悪、落命していた。
 王室の子どもであろうと、庶民の子であろうと、眼の前に消えゆこうとしている生命があり、自分が助けられるものなら明華は迷わず救いの手を差し伸べる。
 明華はもう一度、王子の容態を確認した。大丈夫、脈も安定しているし、顔色も薔薇色に戻っている。発作を起こしていたときは滞っていた気の巡りも順調だ。
 明華は大丈夫であるのを見届け、大王大妃殿を後にした。
 翌日の朝、明華は大王大妃殿から呼び出しを受けた。これは予め予測していたことでもあり、特に愕きはしなかった。ーというより、むしろ、期待通りの展開と言った方が良い。
 昨日、明華は保母尚宮に一切は他言無用と言った。が、大王大妃だけは例外だと踏んでいた。
 保母尚宮から大王大妃に事の次第が筒抜けなのは、火を見るより明らかである。大王大妃は大いに興味を惹かれ、こう言うはずであった。
ー面白い。是非、その者を連れて参れ。
 明華はヨンの悪しき未来を変えたいと願っている。そのためにはヨンが起こそうとしている反正を阻止する必要がある。
 ヨンが?不名誉?によって後世に?暴君?として名を残す運命ならば、?不名誉?と見なされそうな事態をヨンに近づけてはならない。明華としては、無用の殺戮や骨肉の争いなどから彼を遠ざけたいのである。
 ヨンが屠ろうとしている相手が大王大妃だと知れているなら、大王大妃の心のありようを変えるのが最善策だ。大王大妃の悪心が善心に変われば、運命の流れはまったく違った方へ流れることになるだろう。
 そのためには、大王大妃に近づく必要があった。明華が考え出した苦肉の策は、大王大妃と接点を持たねば実行はできないからだ。そして、章興君との邂逅は、まさに明華を大王大妃へと引き合わせてくれる出来事に他ならなかったのである。
 大王大妃殿に赴くと、待たされることもなく中に通される。対面は大王大妃の居室で行われた。
 美しい女性が華やかな花鳥風月を描いた衝立を背景に、菫色の座椅子にゆったりと座っている。既に六十が近いはずだが、髪にはわずかに白いものが混じるだけで、肌も艶やかで張りが漲っている。
 目尻にかすかに皺があるのを覗けば、実年齢を聞いても信じられないほどの若々しさだ。完璧に化粧した色褪せぬ艶やかな美貌は、さながら永遠に涸れない緋牡丹を彷彿とさせる。労働などとは生涯無縁であったはずの両手は今でも白く滲み一つなく、すんなりとしている。爪先まで気を抜かず、はんなりとした桜色に染まっている。
 大王大妃が定期的に女官に爪を染めさせているのは有名な話だ。しかも、熟練した女官でなければ大王大妃の気に入るように仕上げられず、気に入らねば気が済むまでやり直しさせるとも。
 豪奢なチマチョゴリに、後頭部で纏めた漆黒の髪には幾本もの玉の簪が挿され、窓から差し込む陽光に煌めいている。
 明華はいつものようにムスリの制服姿だが、前掛けはしていない。彼女は大王大妃のはるか下に立ち、両手を組んで眼の前に持ち上げた。そのまま一旦座って頭を下げ、また立ち上がって深く頭を下げる。大王大妃にして、この国最高位の女性への敬意を表す拝礼だ。
 拝礼が終わるのを待っていたように、大王大妃が口早に言った。
「おお、参ったか。近う」
 それでも、明華は遠慮して動かない。大王大妃が焦れたように言った。
「そのように遠くでは、話もできぬ。もそっと近くへ参るが良い」
 二度目に漸く立ち上がり、面は伏せた体勢で静々と御前に近づいた。大王大妃とは文机を間に向かい合った格好だ。
「苦しうない、面を上げよ」
 明華は慎ましく伏せていた面を上げた。
 大王大妃の年齢を感じさせない面に、驚愕が走る。
「何と若いのぅ。引きつけを起こした章興君をたちどころに治療したと聞いたゆえ、もっと歳が上の娘かと思うたが」
 愕きも冷めやらぬ様子で矢継ぎ早に問う。
「幾つになる?」
「十五になります」
「十五とはのぅ」
 大王大妃はまた感じ入ったように唸った。その直後、雰囲気が変わった。やわらかな空気が例えるなら張り詰めたとでも言えようか。
 来るべきものが来たかと、明華は内心で身構える。今、大王大妃が検分するかのような眼で自分を見ているはずだ。見なくても、明華には判る。
 針で刺せば音を立てて割れそうな静寂の中、大王大妃が唐突に言葉を発した。
「さりながら、そなたが王子に施した治療は、医術ではなかったとか」
 明華は恭しく頭を下げる。
「さようにございます、大王大妃さま」
「保母尚宮には、そなたが面妖な術を使ったように見えたというぞ?」
「面妖な術ではございません」
「では、そなたが使ったのは、そも何だ?」
 明華は静かに大王大妃を見つめた。大王大妃の眼(まなこ)の底で爛々と焔が燃えている。それは権力という蜜に魅せられた者の瞳だ。権力は手に入れたとしても、際限がない。渇望した挙げ句、すべてを手に入れたつもりでも、すぐにまた更に力が欲しくなる。砂漠で彷徨(さすら)う旅人が水を果てしなく求め続けるのと同じだ。
 大王大妃はそうやって、これまでに白い手を限りない数の人の血に染め、力を維持してきたのだろう。彼女の権力欲の犠牲になったのは、彼女自身の息子も入っていたはずだ。
 明華は淡く微笑みを乗せ、静かな声音で応える。