~王を導く娘~観相師
複雑な生い立ちをしたとはいえ、この辺りは後宮という世間とは隔絶した世界で育ち、世間ずれしていない貴公子だからかもしれない。はたまた男の単純さか、二十一歳の国王は途端に自分の周囲の世界が輝き始めたような錯覚に陥った。
「こうしてはいられない」
あの様子では、明華はまた泣くに違いない。今だって泣きすぎて、可愛い眼は真っ赤に腫れていたのだから。
ヨンは慌てて明華の後を追った。
ところが、である。ヨンは想い人を捕まえられなかった。明華はそのままムスリたちの殿舎に帰らず、例の椿の殿舎ーその昔、淑媛ユン氏が暮らしていたという建物に向かったからである。
あの殿舎は、ヨンと愉しい夜の逢瀬を持った、明華にとっては想い出の場所でもある。
殿舎前まで来ると、今日も雪のように白い椿が真冬の風に身を震わせていた。
朝はまだかなり積もっていた雪も、今は陽光のせいでかなり溶け始めている。時折、屋根から溶けた雪が落ちる音がしじまに響き渡るのも趣深い。
溶け残った雪と泥が混じり合い、地面はあまり綺麗とは言いがたい様相を呈している。足跡に踏み荒らされ、汚れた雪は、まるで今の自分の心のようだ。
ヨンという男はある日突然、明華の前に現れ、彼女の心に遠慮無く踏み込んできた。明華は彼に瞬く間に心を奪われ、今は彼の一挙一動に翻弄され、この体たらくだ。
判っている。勝手に好きになったのは自分。妓生たちの言うように、下町に生きる娘が国王を好きになるなんて、所詮は叶わぬ大それた夢を見ただけなのだ。
とうとう言ってしまった。
明華は両手のひらで頬を押さえる。頬が熱いのが気のせいであるはずもなかった。
我ながら、何と大胆な宣言をしてしまったのか。寄りにも寄って当のヨンの前で、好きだと口をすべらせるなんて。
三月初めの昼下がり、辛うじて雲間から覗いた太陽が弱々しい光を投げかけているけれど、吹く風は身を切るように冷たい。
その風が今、火照った頬の熱を程よく冷ましてくれるようだ。
好きだと口走ったときの、彼の顔はもう思い出したくもない。心底愕いたあの顔は、明華が彼を好きだなどとは想像もしていなかったことを示している。
どう考えても、この恋は見込みがありそうにない。第一、次にヨンと顔を合わせた時、どんな表情をすれば良いのか、見当もつかない。まさに、穴があったら入りたいとは、このことだろう。
明華が頬に溜まる熱を持て余していたその時、風に乗って鳴き声が聞こえてきた。
彼女は小首を傾げ、声のする方を窺った。子猫の鳴き声だろうか。
国王の愛妾たちの中には、猫を飼っている者もいるらしい。そんな猫たちが仔を産んだのだろうか。
耳を澄ませると、また鳴き声が聞こえてくる。いいや、これはどう考えても猫ではなかった。明華は眼をまたたかせ、再度、耳に全神経を集める。
「ー!」
明華は眼を見開いた。この声は人間の赤ン坊の泣き声だ! しかも尋常でないこの泣き方はー。
咄嗟に彼女は走り出していた。
椿の殿舎の隣には通路を隔て、似たような殿舎が建っている。ここもまた住む人とておらぬ淋しさは変わりなく、大方は、下位の側室に与えられる殿舎に相違ない。
その殿舎の前では、尚宮服を着た中年の女が錦のおくるみに包んだ赤児を抱いていた。子猫の鳴き声かと思ったのは、この子が泣いていたからだ。
「尚宮さま」
明華は一礼して、尚宮に近づいた。ふくよかな面立ちの、優しそうな女性である。
「僭越ながら、その御子さまは」
おくるみが絹製であるところを見れば、貴人の子であるのは間違いない。だが、ヨンにはまだ一人の御子もいないはず。
まさか、隠し子とか? また見たくもない彼の一面を見せられたのかと愕然とした時、尚宮の狼狽え声が耳を打った。
「承陽君のご嫡子であらせられる」
尚宮が呟き、慌てたように腕の中の赤児を揺すった。
「おお、よしよし。どうされましたか、章興君さま」
けれども、赤児は泣き止む風はなく、ますます声は高くなっている。覗き込めば、小さな顔は真っ赤で、唇は青紫に変じていた。
これはいけない。明華はキッとした様子で尚宮に告げた。
「尚宮さま、小さな王子さまは引きつけを起こされています。一刻も早く手当をしなければなりません」
下町で育った明華は、物心ついたときから近隣の年下の子をたくさん見ている。癇の強い子は時として引きつけを起こすこともあった。
「何と、引きつけを起こされているのか。あまりにむずかられるゆえ、外の風にでもお当たりになれば治まるかと思うたのだが」
「このような寒い戸外は、かえって危険です」
明華は言い、赤児を抱く尚宮と共に走るように大王大妃殿に戻った。
章興君は今年早々、大王大妃殿に引き取られたという。この赤児の父承陽君こそがヨンと母を同じくする弟なのだ。
まだ生後数ヶ月の章興君を手許に引き取ったとなると、大王大妃はどうやら父親の承陽君ではなく幼い息子を次の駒に仕立て上げるつもりらしい。
確かに、既に十八歳になった承陽君よりは赤児の章興君の方がはるかに御しやすいだろう。
もしかしたら、これは千載一遇の好機かもしれない。明華の中で閃くものがあった。
一介のムスリがどうやって大王大妃に近づくかを考えあぐねていたところだ。天に背こうとする我が身に、天が味方してくれているのだとしたらー。
この機会を逃す手はなかった。明華の思考は目まぐるしく回転し、迷いなく定まった。
引きつけの手当なら、観相師たる我が身にはお手のものだ。医術を施すことはできないけれど、疳の虫を抑えるすべならば、心得ている。
王子の居室に戻ると、明華は保母尚宮に室をできるだけ暖めるように頼み、泣き続ける赤児を腕に抱き取った。
既に小さな顔は真っ赤で、唇は血の気がない。このまま捨て置けば、生命に拘わるだろう。
「よしよし。泣かないの、大丈夫だから」
よく赤児に言葉は判らないのではと言う人がいる。けれども、それは大きな間違いだ。赤児とて人間なのだから、ちゃんと話しかけてあげれば、大人の声音や表情でこちらの伝えたいことを理解できる。
明華は赤児に優しく言い聞かせながら、用意された錦の褥に寝かせた。
赤児に顔を近づけ、注意深く観察する。現王のヨンを初め、王室は美形揃いだといわれている。この赤児も小さいながら、早くも整った面相をしていた。
鼻筋が通り、口許も程よく引き締まっている。何とはなしにヨンに似ているのは、やはり伯父、甥の関係だからに相違ない。
ー大丈夫、この子はけして短命ではない。
夭折する儚い運命(さだめ)の子は、自ずと顔相に現れるものだ。観相師であれば、ひとめで判る。
眉がくっきりとしているのは、長命の証でもある。明華は赤児の眉と眉の間に手のひらをそっと当て、軽く眼を瞑った。
自分の持てる能力を駆使して、?気?を送り込む。?気?とは、判りやすくいえば、気力のようなものだ。人間の体内を余すところなく巡り、生命力の源となる。観相では実のところ、この気力が最も大切だとされる。
作品名:~王を導く娘~観相師 作家名:東 めぐみ