~王を導く娘~観相師
二人は狭い室の中、ひたすら黙って座っていた。降りしきる雪が下界の物音を消してしまうのか、外からは人声さえも聞こえない。あたかも広いこの世に明華と彼と二人きりになってしまったかのような錯覚を覚えてしまう。
いかほど経過したのだろうか。もしかしたら明華が思うよりは時間は短かったのかもしれない。そろそろ沈黙が気詰まりになってきた頃、男が唐突に沈黙を破った。
「そなたは、この家に一人で暮らしているのか?」
「ー」
明華が返答に窮しているのを見て、彼は慌てて言った。
「いや、立ち入ったことを訊いて済まない。別に話したくないなら話さなくてもー」
見た目は老成している彼が赤くなりながら弁解するのは、どこか微笑ましい。この時、明華はこのお坊ちゃんが実際にはかなり若いことに気づいた。
ひとめ見たときは、落ち着いた挙措から二十代半ば以降かと思ったのだけれど、恐らく漸く二十歳前後といったところではないか。
明華は淡く微笑った。
「別に取り立てて隠すほどのことでもありません。お察しの通り、私はここで一人暮らしです」
「そうか、いや、男物の胴着をあっさりと貸してくれたゆえ、てっきり良人を持つ身なのかと」
確かに鶏肉屋も言っていたように、早婚の当時、十五歳で人妻となっていても不思議ではない。妻どころか母となっている者さえいる。
明華は笑った。
「残念ながら、いまだ独り身です。これは父の形見なのです」
「父御や母御は?」
「父は私が生まれる前に亡くなったそうです。母も四年前に流(は)行(やり)病(やまい)で亡くなりました」
銀細工職人だったという父の顔を知るはずもない。母はこの胴着を父の形見だと言って、後生大切にしていた。
時折、母がこの胴着を愛おしげに撫でていたのを幼い頃、何度も見ている。
同じように観相師だった母は、貧しい暮らしの中でも明華を可愛がって大切に育ててくれた。
「そう、か」
男は心得たように頷き、それ以上問うことはなかった。だからかもしれない、明華がもっと話したいと思ったのは。
「母も観相師でした」
「ホウ」
男が興味を惹かれたように身を乗り出した。明華は遠くを見るような瞳で語った。
「物心つく前から母の側にいて仕事を見ていましたから、誰に言われなくても自分も同じように観相をするのだと幼いなりに思い込んでいたように思います」
男は余計な口を挟むでもなく、黙って頷いている。静かな時間が流れた後、男が口を開いた。
「母御の話は知らないが、そなたの評判はよく知っている。何でも、腹にいる赤児の性別でさえ預言すると評判だそうな。凡人の私には信じがたいことだが、真なのだろうか。両班の中にも、そなたに観相をして貰い、世継ぎを得た者もいるとか」
明華は控えめに頷いた。
「事実です。若さまがお話しなのは、領議政さまのお屋敷に伺ったときのことでしょうか」
彼はすぐに頷いた。
「ああ、領議政の嫡子は五十過ぎてもなかなか跡取りの男児に恵まれず、そなたの預言に従って見事に跡取りを得たと聞いた」
明華は笑いながら言った。
「それは違いますよ。私はただの観相師にすぎません。その方の未来を読むことはできても、変えるすべは持たないのです」
物問いたげな彼に、明華は判りやすく説明をする。
「種明かしを致しましょう」
「種明かし?」
彼が綺麗な眼を見開く。
「私が領議政さまのご嫡子の奥方さまにお逢いした時、既に胎内の和子さまの性別は判りました。私は例えば、悪阻の重いときは柑橘類を多く取った方が良いとか、ありきたりの言うなれば誰しもが言いそうな安産のためのご忠言をしただけ。それを領議政さまが大仰におっしゃっているだけです」
「領議政の息子は、これまでに三度も妻を離縁している。皆、子ができなかったという理由だ」
「ご懐妊なさったのは、四度目の奥方でしたね」
五十近い良人とは三十も歳が違う若妻だった。
「なるほど、そのような絡繰(からく)りなのだな」
男は感心したように、しきりに頷いている。
ややあって、彼の口調が変わった。
「ゆえに、そなたの見事な評判を聞きつけ、是が非でも観て欲しいと思うたのだ」
「ー」
明華は一旦うつむき、また顔を上げた。
「わざわざ悪天候の中をお運び戴き申し訳ないのですが、私には何も観えませんでした」
男の端麗な面には、何の変化もなかった。ただ透徹な瞳が明華を見つめているだけだ。
その視線が矢のように鋭く明華の心を刺し貫いた。
けれど、どうして告げられるだろう? あなたの向こうに観たのは、片眼を射貫かれて苦しむ龍であったと。
俄に垂れ込めた重苦しい沈黙に耐えかねたように、男が立ち上がった。
「そろそろ私も帰るとしよう。雪も少しはマシになっただろうから」
男に続き、明華も立ち上がる。扉を開けた男が外を見回しながら言った。
「助かった。先刻よりは随分と良くなっている」
明華も外に出てみると、確かにあれほど吹雪(ふぶ)いていた雪は粉雪がちらつく程度になり、風もふつりと止んでいる。
「この寒さは堪えるだろう。疲れているようだから、気をつけなさい」
男は胴着を脱ぐと、ふわりと明華の肩にかけた。
「大切なものを借りて、かたじけない」
そのまま背を向けて早足でゆこうとし、ふと思い出したように振り返る。彼はもう一度、明華を見ると穏やかな笑みを見せ、今度こそ振り返らず傾きかけた家々が立ち並ぶ路地を去っていった。
明華は魂を抜き取られたかのように、その場に立ち尽くしていた。我に返った時、当然ながら、男の姿はとうに消えていた。ふいに冷たい十二月の風が身の側を駆け抜け、明華はぶるりと身を震わせる。
扉をきっちりと閉め、また室内に戻る。火の気とてない家の中は、たとえ扉を閉めたとしても隙間風は入るし、たいした違いはない。狭い家の中がいつになく閑散として見えるのは、先ほどまで予期せぬ客人がいたからだろう。
明華は父の形見の胴着を着込み、しっかりと前をかき合わせた。小柄な彼女には、父の胴着を着ると、まるで大きな胴着の中で身体が泳いでいるようだ。
明華には大きすぎる胴着も、あの男には誂えたようにぴったりだった。改めて、男と自分の体格差を思い知り、何故か明華の頬はいつになく熱を持つ。
その熱の理由を知らないまま、彼女の思考は別の方へと向かった。
ー良いかい、恒娥(ハンア)。あたしたち観相師が絶対にやってはいけないことが一つだけある。
母はかつて幼い明華に真摯な面持ちで告げた。
ー天に逆らっては駄目。自分が観たものを無理に変えようなんて考えてはいけないよ。もし、天意を変えようとするなら、そのときは占いをする者にとって禁忌を犯す覚悟をしなくてはいけないんだからね。
むろん、観相の結果、例えば良くない未来が観えたとして、その危機を回避する策を授けることはできる。しかし、観相師自身が観たものを無理に変えるーつまり運命をねじ曲げようとするのは御法度だ。
強力な能力(ちから)を持つ占い師であれば、未来を変えることは不可能ではない。けれども、未来や本来、その人が持つ運命を術で変えることは、絶対に手を染めてはいけない神の領域なのだ。
今日、明華は見知らぬ男に言った。
作品名:~王を導く娘~観相師 作家名:東 めぐみ