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~王を導く娘~観相師

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 しかし、五冊の本を連日、読み耽っても、めぼしい成果は得られなかったのだ。漸く掴んだこの情報を一か八か試して見る価値はあるかもしれない。
 何より時は一刻を争うのだ。駄目ならば、また別の手立てを考えれば良いだけのこと。騒動を起こしたり、無用な殺生をするわけではないから、最悪上手くいかなかったとしても、弊害はない。
 どんなことをしてでも、あの男の未来を守りたい。明華の決意は揺るぎない。
 たとえ、そのために天罰を受けようとも、ヨンがあの龍のように傷つき血を流す様を見たくはない。
 観相師だ庶民だと蔑むこともなく、一人の対等な人間として扱ってくれた。卑猥な冗談でからかっても、けして明華が嫌なことはしない。この間の口づけを仕掛けてきたときも、明華が泣けば止めてくれた。
 いいや、ヨンがたとえどんな男であろうと、明華はもう彼に恋してしまった。この想いは何ものにも妨げられない。
 優しい彼のためなら、何だって、できる。
 明華は意を決して再び書物に並んでいる文字を眼で追い始める。原本はもちろん倭国語で書かれているに相違ないが、書店にある本はすべてハングルや漢文に訳されたものばかりである。
 ジジと、机上の灯火がかすかな音を立てて揺れる。夜が更けるにつれ、寒気も強まってきたようだ。明華は思い立ち片隅の箪笥から父の形見の胴着を出してきた。胴着を引き被り、また書見に戻る。
 こんな時、一人部屋というのは都合が良い。相方がいたら迷惑になるし、第一怪しまれるから、夜っぴけ本を読み耽るなんて無理だ。
 明華は顔を上げ、室に填まった窓を見つめた。戸外は、うっすらと明るく染まり始めている。この分では、また貫徹になりそうだと欠伸をかみ殺しながら考える。
 寝不足が祟り、最近、仕事上のミスが多くなっている。けれど、五冊の本をすべて読破するまではおちおち眠ってなんかいられるものか。
 もしかしたら、水琴鈴よりももっと効果的な方法があるかもしれないではないか。
 明華は気合いを入れるために握り拳を固め、呟く。
「あと少し頑張るのよ、崔明華」
 遠くで気の早い雀がさえずり始めたのを聞きながら、明華は書見に没頭していった。

 その二日後、明華は提調尚宮の殿舎に朋輩と二人、向かっていた。今日も例の厠掃除である。宮仕えを始めたばかりの頃、この掃除をサボッたことがある。ヨンに逢うために待ち伏せしたから、掃除の途中で抜け出したのだ。
 あのときは事後、ムスリを監督する尚宮も同席の上、上級女官にしこたま鞭打たれた。
幸いにも化膿こそしなかったけれど、なかなか傷跡は良くならず辛い想いをした。
 が、結果として、あの日、ヨンに逢えたのだし、鞭打たれた甲斐はあったといえよう。
 あのときからまだひと月足らずしか経っていないのに、随分と刻が経過したような気がする。何故か明華は、あの日のことを懐かしく思い起こした。
 昨日から、また雪が降り始め、宮城内はかなりの雪が積もっている。明華はまだ春爛漫の季節の宮殿を見たことはない。百花が咲きそろった宮殿もさぞや美しかろうが、一面銀雪に覆われた王宮はまた格別だ。
 堆く積もった雪は、雪が止んで雲間から陽光が差し始めても溶ける様子はない。明華と同僚は、雪の積もった石畳を転ばないように気をつけながら目的地へと急ぐ。
 相棒は明華よりは五歳上で、二十歳になるという。実年齢よりは幼く見える、紅い頬ににそばかすが散った愛嬌のある娘だ。気立ても良く、その点では、かつて同室だった一つ上の同僚に通ずるところがあった。
「でね、ハン内官ってばね」
 彼女のお喋りは止まらない。というのも、彼女は目下、若い内官と恋愛中なのだ。王の女とされる女官は原則的に恋愛は御法度ではあるが、内官は去勢しており真の意味で男性ではない。ゆえに、監督役の尚宮たちも若い女官が内官と疑似恋愛を愉しむのまでは咎め立てはしなかった。
 一生、嫁ぐこともなく国王に操を立てて散る宿命ー後宮女官として生きる宿命の過酷さを、かつては若かった尚宮は身をもって知っている。
 明華は朋輩の惚気話を適当に受け流しつつ、並んで歩いていた。と、相方が急に袖を引いた。
「見て、国王殿下よ」
 明華は同輩が眼顔で示した方角をつられるように見た。確かに国王を先頭とした一団がこちらに向かってくる。
 相方も明華も急いで脇に寄り、深々と頭を下げる。最下級とされるムスリはむろん竜顔を拝することは許されない。
 大抵、国王には内官や女官が多数付き従っているものだが、今日は違っていた。王の周囲を取り巻くのは何輪もの艶やかな花、妓生であった。衣装が色とりどりで華やかな彼女たちが集っているだけで、それこそ本当の花園のように見える。
「何、あれ」
 朋輩が面を伏せたまま、呆れたように言うのが聞こえる。
「ご側室ならばともかく、妓生を堂々と昼日中から連れ歩くなんて、殿下も本当に何をお考えなのかしら」
 滅多に辛辣な物言いをしない彼女としては、珍しいことである。深く頭を下げる彼女たちの前をいよいよ一行が通りかかった。
 どうしても好きな男の顔を見たいという衝動に勝てなかったのか。後から考えても、そのときの自分はどうかしているとしか思えなかった。明華は国王が眼前を通過する瞬間、迂闊にも顔を上げてしまったのだ。
 刹那、確かにヨンは彼女を見たーはずなのに、彼の瞳には何の感情もよぎらなかった。
 と、すかさず、ヨンの右脇の妓生が甘ったるい声で言った。
「殿下があまりに美男でいらっしゃるから、婢女(はしため)ですら麗しいお顔から眼が離せないようですわ」
 ヨンが気のない笑い声を上げた。
「そうなのか? だが、生憎と朕の眼には美しき大輪の花しか眼に入らぬが」
「まあ、可哀想ですこと。あの娘はあんなに物欲しげに殿下を見つめていますのに。殿下は野に咲く花はお嫌いですか?」
「当たり前ではないか。男が摘みたくなるのは野に咲く貧相な花などではなく、艶やかに咲き誇る花園の花よ」
 ヨンは言いながら、両脇の美しい妓生をそれぞれ両手で引き寄せ、ついでに件(くだん)の妓生の尻に触れた。
 キャーと耳障りな嬌声が上がる。
「こんな場所で、嫌ですわ、殿下」
「なら、二人きりになれる場所にゆこうか?」
 すかさずヨンが言うのに、別の妓生が言った。
「まあ、あたしたちのことはもう、お忘れなのかしら、殿下」
 語尾には隠しがたい媚びが滲んでいる。
 しなだれかかる妓生たちを両腕に抱き、ヨンは愉しげな笑い声を上げた。
 気がついたときは、既にヨンたちの一行は消えていた。明華は言葉もなく、ただ唇を噛みしめていた。
「明華、もう行っちゃったから、大丈夫よ」
 女官名簿には本名の?恒娥?で登録しているものの、普段は今まで通り?明華?と呼ばれている。
 朋輩が気遣って声をかけてくれなければ、明華はいつまでもそのまま頭を下げ続けていたに違いない。
「明華?」
 何度目かに呼ばれ、明華はゆるゆると顔を上げた。朋輩が愕いたように叫ぶ。
「やだ、明華、泣いているの?」
 優しい同僚の声に、明華は涙が止まらなくなった。