~王を導く娘~観相師
ヨンは手巾を持つ手にわずかに力を込め、歯を食いしばる。思わずこみ上げた嗚咽を堪えた。お付きの集団とはかなりの距離があるから、彼が今、何をしているかまでは悟られる心配はない。ちょっと見には、王が椿を愛でているようにしか見えないのは判っていた。
刹那、ヨンの耳奥で淑媛の澄んだ声音が聞こえた。
ー先ほど、燕海君さまは王になられたら、その力で私を救って下さると仰せでしたが、ご自分のために力を使ってはなりません。王の権力は自分の幸せのためではなく、民のために使うべきものです。どうか、ゆめ、そのことだけはお忘れにならないで。
また、彼女はこうも言った。
ー燕海君さまが無事に王座に就かれるその日を愉しみにしておりますよ。私に万が一のことがあったとしても、復讐など考えてはなりません。憎しみはまた更なる憎しみを呼び、結局、自分だけでなく周囲の人々をすべて不幸に陥れます。
あの瞬間、淑媛の美しい面には決死の表情が浮かんでいた。
ヨンは小さく首を振る。
ーですが、淑媛さま、私はあなたの言いつけに背く生き方を選んでしまいました。
復讐の二文字しかない人生を、大王大妃を倒して、あなたの無念を晴らすために私は今日まで生きてきた。座りたくもない王座に就き、女と酒に狂い、時には政に口を挟み引っかき回し、暴君を演じてきたのだ。
淑媛の死後、彼は一人でかつて彼女が暮らしていた殿舎を訪ねた。淑媛が起居していた室は、まだ亡きひとが暮らしていた当時のままになっていた。
その前ー最後に淑媛に対面した時、彼はノリゲだけでなく、庭のムラサキカタバミを摘んで小さな花束にして持参した。ノリゲは受け取って貰えなかったけれど、花束はちゃんと受け取ってくれた。彼女は何ということはない野花をまるで豪華な花束のように歓んでいた。
彼女のいなくなった室の文机に、一輪挿しに入ったムラサキカタバミだけがぽつねんと残されていた。花はとうに萎れ、花びらが数枚、机に散っていた。
彼は涙を堪えながら、拳を握りしめたものだ。
ー私は必ず王になります。王になって、あなたの恨みを晴らして差し上げます。
あの優しく美しい女が罪人などであるはずがない。どうせ大王大妃がでっち上げた事実無根のものばかりであるのは判っていた。
淑媛が暮らしていた殿舎の前に、ムラサキカタバミを植えさせたのは、あの日の誓いをいつまでも忘れないためでもあり、また大切な女をいつでも偲ぶためでもあった。
大王大妃を倒すためには、力が必要だとは幼子にも判っていた。大王大妃に匹敵、或いは上回るだけの権力を持つのは国王のみである。
だからこそ、彼は一旦は自暴自棄になりかけ、投げだそうとしていた学問も武芸も鍛錬を続けた。王としてふさわしい器であると示すために、一心に帝王学を学んだのだ。
やがて、そのときが来た。成祖がまだ壮年で崩御し、既に世子となっていたヨンが即位した。ついに宿願を果たすときが来たのだと思った。
しばらくは大人しく、周囲の期待通りの王としてふるまった。きっかけは彼が成年に達し、大王大妃がとりあえずは政治の表舞台から退いた頃だ。
その日から、彼は君子の仮面をかなぐり捨て、今度は放蕩者の仮面を被ることになる。
英邁さを期待され即位した王の変わり様に、皆が落胆を隠せなかった。周囲の失望を嘲笑うかのように、彼はますます酒色に溺れ狂った。
今や彼に期待を寄せる者などいない。むろん、彼が偽りの姿を演じていることを知る者は朝廷にもいるし、それらの者は別だ。彼らとても普段は大王大妃にひたすら迎合し、王を軽んじているふりをしている。
さもなければ、事を起こす前に大王大妃に気取られ、潰されてしまう危険があるからだ。
誰よりも慕う淑媛との約束を破ってしまったことに、心の痛みはある。だが、後悔は片々たりともない。
大切な淑媛を奪われた日から、彼の小さな心は哀しみと憎しみに凍りつき、永遠に溶けない氷と化した。
なのに、何故だろう。明華の愛らしい笑顔を思い出す度、後悔に似たー後ろめたさのようなものを感じるのは。
明華は最初から、ヨンが放蕩者を演じているだけだと疑っているようだった。彼女に強く惹かれていても、心底から信用できるかまでは判らないから、彼は問われても、のらりくらりと交わしていたのだ。
けれど、ついに昨日、他ならぬ淑媛が暮らしていたあの室で、彼は明華にすべてを打ち明けた。
彼が復讐のために暗君を演じているのだと知った時、明華は哀しそうに見えた。あの今にも泣き出しそうな表情が一瞬、淑媛と重なったのは確かだ。
ー復讐など考えてはなりません。
真摯な面持ちで告げた淑媛が蘇ってきたかのように思えた。
ー私が殿下の運命を変えて差し上げます。
明華は大胆な宣言をした。むろん、当てにもしていないし、彼女を大それた謀(はかりごと)に巻き込むつもりもない。
成功して当たり前、失敗すれば、それこそ不名誉な?逆賊?の汚名を死後も背負わされる羽目になる。
幾ら能力のある観相師だといっても、所詮はまだ十五の娘だ。明華の気持ちは男として素直に嬉しいが、彼女に何を期待することもできないだろう。
何より、ヨンは明華を危険に晒したくはない。大切な者を失うのは、もう二度とご免だ。明華にはたとえ自分ではなくとも、彼女を幸せにしてくれる男と出逢い、平穏な生涯を送って欲しい。
叶うなら、彼女という花を開かせる男は自分でありたい。しかし、今の自分には彼女に何の約束もできない身だ。彼女への想いが深く真剣になればなるほど、彼は将来の約束もできない自分は彼女にふさわしくないと悟った。
もし仮に政変が成功し、これより先も自分が王座に座り続けると判ったそのときにこそ、晴れて彼女に胸の恋情を伝えられる。今はまだ、想いを伝えられる立場ではない。
ヨンはそっと手を伸ばして、寒風に揺れる椿に触れた。天鵞絨(ビロード)のような、なめらかな手触りの花が眼に滲みる。純白に紅い模様が入った花びらは、さながら今、彼が手にしている血染めの手巾のようだ。
突如として、鋭い鳥の鳴き声が物想いを中断させた。
長い物想いから我が身を解き放つ。はるかな旅をしたような心地で、彼はまた空を仰いだ。
ー淑媛さま。
心で呼びかけ、言い直す。
ー母上。
何の鳥かは知らねど、白い鳥が翼をひろげて、はるか頭上を旋回している。いつしか鳥は高く上昇してゆき、灰色の雲に紛れ込んで見えなくなった。
あの鳥は、どこまでゆくのだろうか。
自分にも翼があれば、こんな牢獄のような鳥籠から逃げ出して、遠くまで飛んでゆくものを。幼い頃、彼はよく空を飛ぶ鳥を眺めては、ここから飛んで逃げ出したいと考えていた。
彼にとって、王宮は豪奢な牢に過ぎなかった。そして、もし、ここから飛び立つとしたら、自分はあの少女に何と伝えるのだろう。苦労させることが判っていても、一緒に来て欲しいと伝えるのか。
何故、今日、こんなことばかり考えるのか、彼は自分でも判らなかった。
いつになく感傷的になっている自分を恥じ、ヨンは手巾を丁寧に畳みチュモニにしまった。弱さはつまずきの元であり、失敗を招く。政変は我が身だけではない、協力してくれるすべての者の命運がかっている。
作品名:~王を導く娘~観相師 作家名:東 めぐみ