~王を導く娘~観相師
自由、人間らしさ、優しさー人として大切な感情を持つことは許されない。それが王座に座った者の宿命である。政変によって前王を廃して王座に座れば尚更、いつ今度は我が身が誰かによって王座から引きずり降ろされるか気が気ではない。気持ちの休まる暇もないだろう。
ヨンは生後一ヶ月で王宮に引き取られ、いわば生涯の大半を王宮で過ごした。たとえ政変を経験していなくても、王座がどのようなものであるかはある程度は知っている。
前王成祖は、彼の伯父に当たる。だが、彼は伯父と親しく話したこともなければ、顔を見たこと自体、数度きりだ。幼い頃でもあったため、伯父がどのような人であったかは余計に記憶に残っていない。
だが、彼が見聞きする話から考えて、伯父が幸せな生涯を送ったとは到底思えなかった。淑媛という類い希な女性を得たことは幸せには相違なかろうが、伯父は結局、大王大妃の言うなりに淑媛を廃位の上、毒死に追い込んでいる。
大人になっても母親の言うなりに従い、愛する女一人さえ守れぬ優柔不断な男。伯父に対する認識は、そんなところだ。
しかし、自分が王になってみて、尊敬できない伯父とまったく同じであることに気づき、愕然とした。大王大妃の言うことに唯々諾々と従い、自分の意見さえろくに言えないーまったく伯父と同じではないか!
そのときから、彼の生活は以前にも増して荒れた。後宮の妃たちばかりか妓生まで王宮に呼び、一日中、どんちゃん騒ぎではしゃぎ回る。夜は夜で、妃たちを夜ごと寝所に招き、好色な王を演じ続けた。
その裏では、五年前に全州に左遷されたソン・ジュンシンと連絡を取り合い、決起の瞬間に向けて着々と準備をするのも怠らなかった。
いずれ大王大妃を滅ぼしてやる。淑媛の仇を討つのだと虎視眈々と機会を窺いつつも、何故か心は少しも浮き立たなかった。大王大妃の眼をごまかすために、わざと無能な王を演じているのだと判っていても、空しくて仕方がなかった。
本当は、国王になぞなりたくはなかった。なのに、王になったのは、明華にも語った通り、ひとえに復讐のためだ。
彼は四阿に佇み、眼を細めた。二月の今、春には咲くはずの草木花もすべて雪を被り深い眠りについている。
池には無数の美しい鯉が生息しているはずだが、凍り付くような厳寒の水中で彼らがどうして生きてゆけるのか、いまだに不思議だ。
我が身もまた、凍れる池の鯉と同じなのかもしれない。厳しい極寒の中、やがて水温む春が来て氷が溶け出すのを息を潜めて待っている。
明けない夜も、終わらない冬もない。春が来た時、必ずや自分は行動を起こすだろう。大王大妃を倒し、長年の鬱積と淑媛の無念を晴らす。そのときこそ宿願が叶うはずなのに、歓びの瞬間を想像しても、心は浮き立たないのは何故なのか。
ヨンは四阿から出て、また大殿に戻る小道を歩き始める。池の周囲の樹木は一様に葉を落とし、細い枝が腕を突き出すように鉛色の空に伸びている。枝は薄く雪を頂き、花もない冬枯れの景色も雪化粧を施せば、それはそれで美しい。
王の姿を認めた内官長が手を挙げるのを合図として、また内官・女官の大集団がぞろぞろと後を付いてくる。
ふと道端に椿を認め、彼は立ち止まった。今度もまた内官長が合図し、お付き集団がピタリと止まった。ヨンは足早に椿に近づいた。
純白の花びらに、筋状の紅色がはんなりと混じり合っているものだ。淑媛の暮らしていた殿舎の庭に咲く白椿とはまた違う風情がある。
ヨンは袖から小さな巾着(チユモニ)を取り出し、一枚の布きれを出す。元は手巾らしい布は、茶色く変色していた。忘れようとしても忘れられない、彼が慕う淑媛は毒杯を飲んだ際、大量の血を吐いた。この手巾は当時の惨劇を知る唯一の証人だ。
淑媛は死の苦しみに喘ぎながら吐血し、この手巾は彼女の血の涙を吸った。
王の思考は次第に刻を遡ってゆく。
淑媛が謹慎処分を受けたと知り、彼は真っ先に大王大妃殿に駆けつけた。義理の祖母である大王大妃に助命嘆願をしたけれど、一笑に付されたどころか、かえって大王大妃の怒りを買っただけだった。
彼は何の力も持たない、七歳の王子に過ぎなかった。当時は、まだ世子ですらなかった。大王大妃の実子である成祖さえ、大王大妃に逆らうすべはないのに、たかだか七歳の童子に何ができたろうか。
それでも、彼は無力な自分に嘆き、憤った。淑媛の?罪状?が確定し、最早生命を救えないと知った時、彼は最後に彼女に逢いにいった。保母尚宮であったカギュンは止めた。
ー大王大妃さまのご不興を買わない方がよろしいのでは。
けれど、彼は耳を貸さなかった。
幼心にも、淑媛に逢っておかなければという想いに突き動かされていた。
あの椿が咲く殿舎の居室で、淑媛は端然と座り写経をしていた。
いざ淑媛の顔を見ると、彼は決意も忘れ果て泣きじゃくった。
あの時、淑媛は何も言わず、ただ儚い笑みを浮かべているだけだった。とうに自分の生命が長からぬことを覚悟していたはずである。
彼は再度、ムラサキカタバミのノリゲを淑媛に差し出したのだ。
ーこれは私のお守りです。これを持っていると、私は母上が守って下さるような気がしました。でも、これからは淑媛さまを守ってくれるように、亡き母上にもお願いします。
懸命に訴える彼に、淑媛はやはりノリゲは受け取らず、一度めと同じことを言ったのではなかったか。
ー燕海君さま、よろしいですか、いつか、あなたが長い生涯を共にされる姫君が現れた時、これを差し上げて下さいね?
彼は泣きながら言った。
ー私がいつか好きな女の子と巡り会って、このノリゲを渡すその日まで、淑媛さまもお元気でいて下さいませんか。
淑媛は依然として何も言わず、儚い笑みを浮かべるだけだった。あの時、大泣きするヨンを前に、淑媛はそうするしかなかったはずだ。
ー私は王になります。今まで王になりたいとは思いませんでした。王座なんて窮屈なだけだし、良いことは何もないと思っていました。でも、王になれば力を得られます。力さえあれば、淑媛さまを救って差し上げられるでしょう。私が王になれば、必ず救って差し上げます。だから、必ず、その日まで、お元気でいて下さい。
彼の懇願に、淑媛もこのときばかりは泣いていたように記憶している。
ー約束して下さい、今、ここで。
ヨンは自分から小さな小指を指し出し、淑媛もその指に指を絡めてくれた。
約束は永遠に果たされることはなかった。
数日後、淑媛は予定通り毒杯を賜り亡くなった。まだ十六歳であったと聞く。
随分と大人びていたから、その頃、ヨンは彼女が自分より少なくともひと回り以上は年上だと信じ込んでいたけれど、実際は十ほどしか違わなかったのだ。
ヨンは血染めの手巾を握りしめる。淑媛の死後、彼は何とかして彼女の形見が欲しいと願った。
だが、?罪を得て処刑された廃妃?の持ち物は、あらかた処分されてしまっていた。保母尚宮が手を尽くして探し回り、やっと入手できたのがこの血まみれの手巾であったのは、哀しいことだ。
でも、この手巾を手にしたことで、逆にヨンの決意はより固まった。
いつか必ずや淑媛さまの仇を討つ。それがヨンの生きる目標になった。
作品名:~王を導く娘~観相師 作家名:東 めぐみ