~王を導く娘~観相師
単に容姿の問題ではない。ユン・ソファは光が差すような美貌であった。美しさの点でいえば、明華はソファには劣るかもしれない。丸顔の大きな瞳が愛くるしい明華は、美しいというよりは可愛いといった方がふさわしい。
もちろん、明華も世間でいえば、十分に美しいという範疇に入る娘だが、ヨンが強く魅せられたのは明華の外見ではなかった。何にでも一生懸命で、自分のことは後回しで他人のために身命を惜しまず、お人好しともいえる人となりがソファそのままだったから。
宏壮な王城内の一角、王宮庭園の最奥部には巨大な池がある。到底、人の手になるとは思えない巨きな池は対岸を見晴るかすのも容易ではないほどだ。
真冬のただ中の今、池面は固い鏡面のように凍り付き、その上に更に白雪が積もっている。池辺には反りが優雅な四阿(あずまや)が建ち、遠目からは四阿が池に浮かんでいるように見える。
極彩色に彩られた四阿は周囲こそ吹き抜けだが、屋根がしっかりしているため、多少の風雨は凌げる。歴代の王や妃たちはよくこの四阿を訪れては池の鯉を愛でたり、四季折々の美しい眺めを愉しんだ。
燕海君が四阿に入ると、付き従ってきた大勢の内官、女官は外側で一定の距離を置いて畏まる。一様に慎ましく面を伏せ、王の視界には入らないようにしている。
正直言えば、彼はこの常に大勢の取り巻きを従える状況にいまだ慣れていない。だが、彼らにとっては王の身辺を守るのが任務であり、ヨンが必要ないと言えば困らせるだけだ。
たまには一人きりで考え事に耽りたいものだと思っても、基本的に王に真の意味で自由はない。信頼のおける内官一人を連れて散策するのが関の山である。
だからとうわけではないが、ヨンはしばしば、ひそかに王宮を抜け出した。もちろん、護衛も連れておらず、両班の子息に身をやつし町を闊歩するのだ。そのときだけがヨンにとっては自由を満喫できる貴重な時間であった。
彼が明華と出会ったのも、まさに忍びで下町を歩いているときである。都でも呼び声の高い観相師がいると聞き、是非、観て貰いたいものだと訪ねていった。もっとも、当の観相師があのように年若く可憐な少女だとも、彼女にひとめで魅了されるとも考えだにしていなかった。
そう、明華との出会いは、まさに一目惚れだ。たとえ淑媛に似ていなかったとしても、あんなに魅力的な娘なら、恋せずにはいられなかったろう。
明華と過ごす一瞬一瞬が彼にとっては、至福の瞬間だ。彼女の前でなら、肩肘張らずにただの一人の男、?イ・ヨン?としていられる。
昨夜は少しだけ暴走して、明華を泣かせてしまった。
ー殿下は私をからかっても、嫌なことはなさいません。
明華が挑発するようなことを言うものだから、つい理性の箍が外れそうになった。
冷たい地面であるのも考えず、明華を押し倒し唇を奪った。本当はもっと深い口づけを仕掛けたかったし、その先にも進みたかった。けれど、明華の涙を見て危ないところで思いとどまったのだ。
彼は王ではあっても、権力で女人を欲しいままにしたことは一度たりともない。向こうにその気がない女を抱いたとしても、空しいだけだ。幸か不幸か、彼のために後宮には多くの美姫が集められている。
王は気の向くままに後宮という花園に咲く美しき花々を手折ることを許されている。まさに、世の男たちの垂涎の的といえる。
けれど、ヨンは思うのだ。いつでも好きなときに女の身体を自由にできる立場がそんなに魅力的なものだろうか。
彼の十六人の側室たちは、大方は大王大妃殿から送り込まれた女官である。つまり大王大妃の息の掛かった女たちであった。
大王大妃推薦の女たちを拒めるはずもなく、美しい女官が送り込まれる度に、逆らいもせずに寝所に召した。他は父親が朝廷の高官であり、当の父親に頼み込まれて娶ったにすぎない妃たちだ。
彼が自ら望んで召し上げた妃は実のところ、一人もいない。それでも、彼女たちにまったくの情を感じていないわけではなかった。
とはいえ、妃たちの根底には常に打算が働いている。一途に自分を慕うかに見える妃たちの姿を見て心が動きかけるときもあるが、ふとした瞬間に彼女たちの態度に垣間見える野心が彼の心を冷めさせ、萎えさせる。
そんなことの繰り返しだった。
ヨンが初めて心を動かされた女が崔明華だった。だからこそ、昨夜は暴走して彼女の純潔を奪わないで済んで良かったとつくづく思う。昨夜、結ばれていたら、明華はけして彼を許しはせず、受け入れてはくれなかっただろう。
明華は、そういう娘だ。ヨンが国王だからといって下心を持つわけでもなく、ありのままの彼自身を見てくれようとする。明華のそんなところも、彼には大きな魅力だ。いや、本音を言えば、明華には自分の王という立場に少しでも魅力を感じて欲しいとさえ願う。
他の女たちのように、王という立場に魅力を感じてくれれば、もしや明華を手に入れることができるのではないかなどと浅ましい気持ちを抱いてしまう。
二十一年間生きてきて、まさに生まれて初めての恋を知った気持ちだ。心から守りたい、大切にしたいと思う娘を泣かせてしまった。
昨夜、行為に及んでいれば、確かに明華の身体を手に入れられはしただろうが、彼は明華の心を永遠に失ったに違いない。だから、やはり、途中で思いとどまって良かったのだ。
と思う側から、あのやわらかな身体を腕に抱き、彼女の中に深く自分自身を沈めてみたかったと思う気持ちがあるのは今更だ。
実のところ、彼は王になりたいと願ったことは一度としてなかった。王朝の歴史を紐解けば、いわゆる?反正?と呼ばれる政変は幾度となく起こっている。
当時の為政者や政治に不満を持ち、新しい王を冊立するために志ある者が立ち上がる。当然ながら、王は廃位され、それに連なる者たちは徹底的に粛正される。政変に何より必要なのが大義名分である。ゆえに、どの政変においても、王室の血に連なる者が推戴され旗頭とされた。政変が成功した暁には、旗頭が前王になりかわり即位する。
そうやって王の首をすげ替え、勝利した?反逆者?たちは一転して?功臣?と呼ばれる輝かしい立場となる。新しい王の治世下、彼らは王を即位させた立役者として脚光を浴び、政府の要職を独占する。
繰り返し起きた政変では、首謀者自らが即位することはなく、必ず旗印として担ぎ出された王族が新王に立てられた。むしろ首謀者は新しい王の背後で、影の権力者として絶大な権力をふるったのだ。反正で即位した王は、?功臣?たちに頭が上がらない。何故なら、本来なら傍系の物の数にも入らぬ王族の一人で終わるはずの彼を光当たる表舞台に立たせてくれたのが功臣たちだからだ。
功臣たちに恩義のある王は、彼らに大きな借りがある。彼らは王の弱みを実に巧妙に利用し、王を上手く操った。
では、何故、功臣たちは自らが即位し、新しい王朝を建てなかったのか? 応えは知れている。王という立場に魅力を感じなかったからだ。
王座は一見、この世のすべてを思い通りに動かせる権力の座に見えるかもしれない。けれども、実際に玉座に座れば、それは大きな思い違いであると知らされる。
作品名:~王を導く娘~観相師 作家名:東 めぐみ