~王を導く娘~観相師
「これまで何度、殺されかけたか知れない。今、こうして生きているのが我ながら不思議なほどだよ」
まるで天気の話をするような口ぶりが、かえって彼の生きてきた壮絶な日々を彷彿とさせる。日々、生命を狙われる危険があることは、彼にとっては?日常?でしかなかったのだ。
寛徳大王大妃、何と空恐ろしい女性だろう。明華は我知らず背筋が冷えるのを憶えた。
一応、念のために確認する。
「殿下を殺そうとしたのは、大王大妃さまですか?」
ヨンが肩をすくめた。
「いちいち確認したわけではないから、何とも言いようはないけど、十中八九は」
思わず張り詰めさせていた息を吐き出し、明華は少し考えてから続ける。
「だから、わざと凡庸な王を演じていたのですね?」
「まあ、そういうこと」
ヨンはまた何でもないことのように言い、視線を上向けた。
「私が愚鈍な王である限り、多少の対立はあっても、大王大妃は安心していられる。あまりにお粗末な出来では王座に据える価値もないと判断されてしまうから、即位までは大王大妃の気に入るように、ほどほどに出来の良い孫を演じた。今は、こんな阿呆はいつでも玉座から引きずり下ろせると油断しているはずだ」
「立ち入ったことをお訊きしますが、お妃さま方との間に御子をお作りにならないのも、そのせいですか」
この問いの応えには、少し間があった。
「今までは何とか大王大妃の放った刺客から逃れてこられたが、いつ何時、どうなるか判らない身だ。子を儲けたとしても、息子までもが大王大妃の権力欲の餌食になるだけだと判っているからね」
次いで、彼は意味深な瞳で明華を見た。
「後は、妃たちの中に、我が子の母となって欲しいと思う女がいない。それも大きな理由だ。己れの立身と保身にしか興味がないような女はご免だ」
かなり冷淡な、切って捨てるような言い方である。明華はこの部分には少しの引っかかりを憶えた。
「ですが、殿下。お妃さまたちの中には純粋に殿下をお慕いしている方もいらっしゃるのではないでしょうか」
十数人もいる妃すべてが欲得づくだけで王に仕えているわけではあるまい。
ヨンが表情をやわらげ、頷いた。
「確かに、明華の言う通りだ。妃の中には、可愛いと思う者も確かにいる。けれど、結局、彼女たちの頭の中には自らの実家の隆盛だとか、自身が世子の母になるといった欲が勝っている。私もだてに後宮で育ったわけではないから、その辺りの女人の計算づくの心理くらいは見抜ける」
ー妃の中には、可愛いと思う者も確かにいる。
そう言ったときのヨンの表情がかすかに笑んでいたのは気のせい?
それはそうだろうと、明華は自嘲気味に考える。ヨンの側室は上は張貴人から下は淑媛の位を賜った者まで、総勢十六人と聞いている。そのすべての女たちが皆、計算高い、可愛げのない女であるはずはなく、曲がりなりにも夫婦としての日々を過ごしているなら、情が湧かないはずはないのだ。
ヨンからは、あまり聞きたくない言葉だと思うのは、明華の理不尽な我が儘だと判ってはいる。明華のヨンへの想いはごく一方的なもので、いわば片想いにすぎないのだから。
彼が何人の女を侍らせようと、どの妃を愛していようと、明華に口を出す資格はない。
だが、これですべての謎が解け、パズル(合わせ絵)のピース(断片)があるべき場所に収まった。ヨンは、やはり、見かけ通りの暗君ではなかった。
更に、大王大妃に何度も殺されかけている。この結論から導き出される彼の未来絵図がそのまま、明華が観た?手負いの龍?なのだろう。
悪しき未来を変えるには、大王大妃をどうにかするしかない。とはいえ、相手は一国の大王大妃である。哀しいかな、ムスリがまともに闘える相手ではないのは確かだ。
ーどうすれば良いの?
焦りと戸惑いだけが募ってゆく。ふと、こちらをじいっと見つめているヨンと眼が合った。
哀しみに揺れる双眸は、そっくりそのまま傷ついた龍の瞳と重なる。片眼を射貫かれ、血の涙を流していた美しい龍。二度目に観たのは、悠々と空を飛翔する龍がたくさんの矢を射かけられ、満身創痍で墜落する痛ましい場面だった。
古来、龍は帝王、しかも聖君を象徴する瑞獣である。きっと大王大妃という障害さえなければ、この男は聖君と後世に名を刻む男なのだ。
明華は唇をかすかに噛み、彼に問うた。
「殿下は復讐をするために王になったと、おっしゃっていましたね」
「ああ」
短い返答の後、明華は更に踏み込んだ。
「殿下が復讐をしたいのは、大王大妃さまですか?」
十日前のやりとりから、恐らくは間違いはないと思われたが、念には念を入れて確認しておく必要がある。無関係な人間を巻き込む愚だけは犯せないからだ。
「その通りだ」
ヨンは知ってか知らずか、文机に載せていた手を握りしめた。
「すべての不幸の因(もと)は、大王大妃にある。淑媛さまが廃位され毒刑に処せられたのも、すべてはあの女のせいだ」
明華は膝をいざり進め、ヨンに近づいた。無人の殿舎ではあるが、声を潜めて訊ねる。
「念のためにお訊きします。どのように報復するか、具体的な方策はお考えになっているのですか?」
ヨンがチラリと明華を見やる。その様子からは、彼がそこまで一観相師に明かすべきかどうか迷っているのが判った。が、彼は小さく頷き、自らも小声で話し出した。
「五年前、兵曹判書だったソン・ジュンシンが今は左遷され全州に県監として赴任している」
「ソン・ジュンシンさまですか」
むろん、明華のような政治に詳しくない小娘が知るはずもない人物だ。
「私とジュンシンは父と息子のような間柄だった。私の乳母を務めた保母尚宮の良人がジュンシンなのだ」
ヨンの瞳が淡い闇の中でキラリと光った。
「ジュンシンと私を引き離したのは、言わずと知れた大王大妃。ジュンシンは開国功臣を祖に持つ名家の当主であり、妻が私の乳人である関係から、朝廷でも発言権を持っていた。何より、国のためを純粋に憂える忠臣だ。そんな男が王である私と密接な繋がりを持てば、結果として王の権力も強まる。大王大妃は、私が力をつけることを恐れ、ジュンシンをありもしない罪状で告発させ、左遷したんだ」
だが、と、ヨンが複雑な瞳の色で明華を見る。
「当時、ジュンシンは憤った。このまま挙兵して、大王大妃殿を包囲して大王大妃を監禁し廃位してしまおう。そして、名ばかりの国王親政を本来の形に戻し、あるべき国の姿を取り戻すのだと息巻いていた」
「何故、挙兵しなかったのですか?」
ヨンが弱々しく笑う。
「その頃、私はまだ十六歳、形ばかりとはいえ、漸く親政を始めたばかりの若さだ。いきなりジュンシンと呼応して挙兵としたとして、どう考えても、周囲の理解や民心を得られるとは思えなかったよ。大王大妃の専横を快く思わない者は少なくはないはずだけど、明華、兵を挙げるには、それなりの名分が必要だ。その頃の私はまだ名分を持ち得なかった」
「今は名分はおありに?」
ヨンの眼が炯々と光った。手負いではなく、力強い天地を震わせる咆哮を上げる、雄々しい龍の瞳だ。
「あれから五年、私も少し王として成長した。
作品名:~王を導く娘~観相師 作家名:東 めぐみ