~王を導く娘~観相師
応えにならないかと思ったが、ヨンは何も言わず頷いた。
「私が言ったのは椿ではないよ」
「え?」
何を言われたか判らなかったのだが、どうやら、彼は別のことを言いたかったようである。
「椿を眺めているそなたが美しいと言ったんだ」
「ー」
黙り込む明華には頓着せず、彼は朗らかに続ける。
「月光に照らされているところを見ると、明華自身がその椿の花のようだ。もしや花の精が人の形を取ったなら、可憐な娘になるのかもしれない」
ヨンがスと音もなく近づき、緑の茂みから一輪の椿を摘み取った。手を伸ばし、摘み取ったばかりのみずみずしい花を明華の髪に飾る。
少し離れてしげしげと眺め入り、ヨンは満足げに頷いた。
「ムスリの格好をしていても、十分に美しい。綺麗な衣装を纏えば、生まれながらの姫のように変わるだろう」
ヨンの明華には不似合いな賛美は続く。
「不思議だと思わないか? 雪のように白い椿は陽を浴びる昼間は男など知らぬ少女のようでもあり、今宵のように清かな月明かりに照らされれば、妖艶な男を知り尽くした女のようでもある。まさに、今の明華そのものといった感じだ」
ヨンが告げた白椿の印象は、明華が感じたものと同じだったのだがー。問題は別のところにある。
ふいに堪らなくなり、明華は声高に言った。
「止めてくれませんか」
我ながら何ともとりつく島のない態度だ。だが、もう止められなかった。明華は堰が切れたように言い募った。
「殿下は気紛れでなさっているだけかもしれませんけど、私には迷惑です」
ヨンが整った眉をつり上げた。
「迷惑?」
何も考えられず、明華は頷いた。
ヨンがまた足音も立てず、明華に近寄る。
「果たして、そうかな? 私は確かに良い加減な男かもしれないが、心にもないお世辞は口にしない。明華はどこから見ても清純な少女だ。さりながら、こうして真夜中に二人だけで会えば、信じられないほど色香がある妙齢の女人に見える。外見だけではないよ。何度か腕に抱いたそなたの身体は、もう子どものものではない。抱き心地も良さそうな、成熟した大人の身体だった」
「それを止めて下さいと言ってるんです」
「ー」
二人の視線が夜の中で絡み合った。先に視線を逸らしたのは明華の方だ。
「殿下は私をからかって面白いかもしれませんが、良いように遊ばれる私は堪ったものではないです」
「からかう?」
ヨンが思いもかけないことを言われたように愕きの表情を浮かべた。
「先刻も告げたはずだ。私は心にないことを口にしない。つまりは、今の科白は本気も本気だということになる」
「嘘ばっかり、全部空言にしか聞こえないわ」
「何が空言だって?」
ヨンが更に近づく。あまりに距離が近すぎる気がして、明華は知らず、のけぞった。
「何故、無能な君主のふりをするのですか?」
別にこの時、彼の正体を暴こうとしたわけではない。ずっと心の奥底に秘めてきた疑問が意図せずして飛び出てきたにすぎなかった。
「相変わらず、思ったことをはっきりと言うな」
明華は夢中で言った。
「十日前は応えては下さいませんでしたよね」
「さて、どんな質問をされただろう?」
また、空惚けて知らんふりをしようとする。明華は叫ぶように言った。
「私には殿下がわざとお酒や女の人に溺れ、愚かな君主だと誹られようとしているとしか思えません」
ヨンの美しい面から笑みが消えた。
「残念だが、そなたは私を買い被り過ぎている。私は廷臣たちの噂通り、女好きの暴君だよ」
「嘘です」
明華は断固として否定した。
初めて出逢った日を思い出すが良い。明華は、ヨンの衝撃的な未来を傷ついた龍という映像で観てしまった。衝撃で倒れそうになった彼女をヨンは家まで送ってくれた。丁度、吹雪になり、雪が弱まるまで上がっていったらと勧めた明華に、彼は若い娘の一人住まいゆえと遠慮してくれたのだ。
細やかな心遣いをする男が本当に女好きなものか。でも、眼前の事実ーあまたの女たちを侍らせて、だらしなく緩みきった笑いを見せる王は、誰の眼にも好色で無能な王でしかない。
果たして、これが仮の姿なのか、何か事情があってのことか。それとも、真実、ただの好色な暗君なのか。
眼前の男の瞳を覗き込んでも、底知れぬ湖のように静まっているだけで何も見えない。
明華は小さく首を振る。
「だって、殿下は私をよくからかわれますけど、本当に私が嫌なことは一度としてなさいませんでした」
刹那、月明かりを反射して、冴え冴えとした瞳が妖しく輝いた。
「それでは期待に応えよう。私が評判通りのろくでもない王だとここで今、証明して見せるよ」
白絹のような光沢を帯びた椿が月明かりに濡れている。俄に花の香りが噎せ返るように周囲に立ち上ったような気がした。
次の瞬間、明華はその場に押し倒されていた。彼女は愕き、抗った。しかしながら、両手を持ち上げた体勢で上から押さえ込まれては、逃れようもない。
のしかかってきたヨンは、これまで明華が知る穏やかな青年とは別人のように見えた。
月光を映した美しい瞳は、冬の月のように凍てついている。明華は魂を奪われたように、冷たく輝く瞳が近づいてくるのを見つめた。
しんとした冷たい感触が唇を掠め、初めて我が身がヨンに口づけられているのだと知る。けれど、接吻(キス)しているのだという実感はまるで湧かなかった。
明華も年頃である。殊に同室だった一つ上の少女とは、眠れぬ夜に恋愛話などにも花を咲かせた。そのときはまだ明華は親友に許婚も同然の男の存在がいるのを知らなかった。だが、幼なじみの恋人がいた彼女は恋愛体験もそれなりに持っていて、口づけも何度か交わしたことがあると話していた。
ー不思議なの、彼の唇は燃えるように熱いのよ。きっと、彼の想いを伝えているのね。
臆面もなく、のろけていたっけ。
でも、今、明華の唇を奪ったヨンのそれは、どこまでも冷え切っている。そう、彼の冷たく光る双眸のように。
どこまでも冷め切った彼とは裏腹に、明華は唇どころか、身体中が熱く熱を持ち始めていた。地面に横たわっているというのに、夜気に凍り付いた地面の冷たさも判らないほど、身体は芯から燃えるように熱くなっている。
そして、その得体の知れぬ熱を呼び起こし、明華の身体に火を付けたのはヨンだった。
同室の娘の体験談からすれば、多分、ヨンは明華に対して恋をしていないのだ。だから、平気で口づけたり、押し倒したりできるに違いない。大切に思う相手なら、怒りに任せて荒々しい行為には及ばない。
普通、口づけは、かつての親友が話していたように、好き合った男女が気持ちを通わせるためにするものだ。想い合う男女の接吻とは、多分、互いへの愛しさと優しさが溢れた甘やかで親密な行為なのであろう。まだ男女の事はよく判らないなりに、明華はそのように考えている。
明華は静かに瞳を閉じた。そう、今まで気づいていないふりをしてきたけれど、自分はこの男イ・ヨンに恋をしている。きっと町辻で初めて出逢ったあの瞬間から、恋していた。
だからこそ、観相師としては禁忌を犯してまで、ヨンの未来を変えようと決意した。
作品名:~王を導く娘~観相師 作家名:東 めぐみ