~王を導く娘~観相師
ー止めて下さい。今日、本当は私と同室の娘(こ)と二人で洗濯をするはずだったんですけど、その子が腹痛になったんです。だから、私が一人でしているだけですから。
ーそうなのか?
ヨンはまだ疑わしい口調であったがー。仕方ないので、明華は事の次第を詳しく話した。
前夜、ムスリの中でも闊達な娘が水刺間(スラッカン)にこっそりと忍び入り、余り物のお菓子を調達してきたこと。若いムスリたち数人で、滅多に食べられない貴重な菓子を分け合って食べたこと。
中でも、同室の娘はお菓子を皆の倍は平らげたことなど。一通り聞いたヨンは、呆れたような顔だった。
ー何と、そなたたちは水刺間に夜中に忍び入り菓子を持ち逃げした挙げ句、同輩は食べ過ぎて腹を壊したのか!
水刺間は、国王、王妃などの御膳を整える厨房である。その貴人専用の厨房からムスリが貴重な菓子を盗み出すとは、当の国王は想像もしていなかったのだろう。
明華は言い訳がましく言った。
ー私は一応、反対しましたよ。
ー一応ねえ。
ヨンは意味深な笑みで応えた。
明華は紅くなりながら言い返した。
ーだって、私たちはそうでもしなければ、国王さまが召し上がるお菓子なんて一生涯口にできないんだから!
その後で、しゅんとして言った。
ーまあ、盗むのは悪いとは思いますけど。
明華の耳に、高笑いが聞こえてきた。うつむいていた明華は弾かれたように面を上げた。
眼前で、ヨンが涙目になって笑っている。
唖然とする明華の前で、ヨンはしばらくまだ笑っていた。
ーそんなにおかしいことを申し上げましたか、殿下。
明華が可愛らしい顔に怒りの形相を浮かべると、ヨンは涙をぬぐいつつ言ったものである。
ー食いしん坊なところは、流石に淑媛さまには似ていないな。
この科白には明華も怒り心頭に発した。
ー私はどんなお咎めを受けるかと戦々恐々だったのに、涙が出るほど笑いものにするなんて、あんまりです。
つい相手が王であるのも忘れ、拳を振り上げたら、次の瞬間、強い力で引き寄せられた。
ーおっと、殴り倒されるのはご免だ。
我に返った時、明華はヨンの逞しい腕に囚われていた。
ー放して下さい。
愕き抗う明華を拘束する力は弱まるどころか、ますます強くなる。
ーでも、怒った顔も可愛い。
熱い吐息混じりに耳朶に注ぎ込まれ、明華はもう卒倒しそうなほど頭に血が上った。普段から女慣れしているヨンと違い、こちとら異性とは口づけさえした経験がないのだ。
からかい甲斐があるから、ヨンはさして深い意味がなく、からかっているだけなのは判るが、翻弄される明華の身にもなって欲しい。
このときはすぐに解放してくれたものの、まったく心臓に良くないと改めて思った明華だった。
その数日後、どういう風の吹き回しか、提調尚宮からムスリたち全員に下されものがあった。全員に焼き菓子が差し入れられたのである。柑橘類の干したものを砕き、生地に練り込んでふんわりと焼き上げた菓子は、ムスリたちが口にしたこともないような上等なものだ。
普段、国王や側室たちが食べているものだ。何故、女官長が突然、ムスリたちに上菓子をふるまう気になったか? 誰も真の理由を知るはずもなかったが、ただ一人、明華だけは何となく女官長に命じた人物がそも誰か察しがついた。
その時、立ち去り際、ヨンが囁いたのだ。
ー明日、例の場所で待っている。
幸いにも、明華がヨンと一緒にいるところを見た者はいなかった。ヨンも立場上、かなり警戒はしているのだろう。現れるときも突然なら、去るときも油断なく周囲を窺っていたようだ。
それもそのはずで、国王が一介のムスリと個人的に親しくしていただなどと知れれば、それはもう大事(おおごと)になる。いや、ムスリでなくとも、王が特定の女に親しさを示せば、即ち?見初められた?ということになるからだ。
下手をすれば、噂が野火のようにひろがり、抜き差しならぬ状況になってしまう。そうなれば、ヨンの立場としては、特定の女を捨ておけない。側室として召し上げるか、もしくは承恩尚宮に任命して?男としてのケジメ?
をつけなければならないのだ。
ちなみに、承恩尚宮とは、側室ではないが、側室に準ずる待遇を受ける女官を指す。尚宮と呼ばれても、仕事を持つ一般の尚宮とは異なり、仕事はせず、煌びやかな衣装を纏い王の閨に侍る。尚宮の中でも特別の立場なので、特別尚宮とも呼ばれる。
当日、明華は約束の刻限より、かなり早くに例の殿舎に着いた。同室の娘の腹痛はなかなか回復しなかった。最初は単なる食べ過ぎかと思われたのだが、内医院の医官がしばらく里方で静養させた方が良いとのことで、退宮せざるを得なくなった。
明華より一つ年上なだけのこともあり、すぐに打ち解けて親友になれたのに、残念だった。気さくな娘で、先輩ムスリたちの新入りの虐めに対しても、それとなく庇ってくれたりもしたのだ。
その娘のゆく末が気になり、本人の了承を得ずに悪いとは思ったけれど、少しだけ観相をしたところ、悪いものは感じなかった。観えたのは、つがいの鳥が寄り添っている映像なところから、娘の腹痛もほどなく治まり、伴侶を得るーむしろ福運が感じ取れたのだ。
別れるときに少し訊ねたら、確かに実家の近くの幼なじみと恋仲であるというからには、きっと恋人と近々祝言を挙げる運びになるに相違ない。
短い間だったけれど、仲良くしてくれた娘には幸せになって欲しい。明華は安心して送り出すことができた。ヨンのときのように観たくない未来を観てしまうこともあるが、こんなときは観相ができるのは恵まれていると思う。
明華は意外なことから、こうして一人部屋になった。しばらく新入りが入る予定はないとのことで、このまま一人で室を使いなさいということらしい。
相部屋だった娘は、さっぱりした気性の良い子だったから、特に気まずさを感じなかった。それでも、こうして夜中にこっそりと抜け出すのを考えれば、やはり一人部屋の方が助かる。
明華は室を出る間際まで、鏡を覗き込み、ほつれてもいない髪を必至で直していた。
ーこれは逢い引きではないのは判っているけど、やっぱり、人と会うときは身だしなみも大切よね!
自分に言い訳しているところがはや普通ではないとは、本人は気づいていない。
今日も殿舎前には、白椿が清楚な佇まいを見せている。十日前、生まれたばかりだった月はかなり満ちてきて、ふっくらと優しい形をしている。
夜が更けるにつれ、寒気はますます強くなっていっているようだが、空は清澄に晴れ渡り、雲はない。今夜は雪が降る気配はなかった。
月明かりに浮かび上がる椿は、無垢な処女(おとめ)のようでもあり、なおかつ臈長けた女の艶やかさも持ち合わせる。
明華が椿を眺めていると、ヨンの呼び声が聞こえたのも十日前と同じだ。
「美しいな」
ハッとして振り返ると、月明かりの下、ヨンが立っていた。今夜は龍袍ではなく、初めて見たときに纏っていた薄藍の衣服を纏っている。冠もつけていないので、随分と寛いだ感じに見えた。
「ごめん、今日も待たせたかな」
彼は、気さくな様子で近づいてくる。明華は眼を見開いて見つめた。
「椿が綺麗だなと思って」
作品名:~王を導く娘~観相師 作家名:東 めぐみ