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~王を導く娘~観相師

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 このような場合、何をどう言えば、彼の深く傷ついた心を癒やせるのだろう。おざなりな言葉をかけるだけでは、かえって逆効果になってしまう。
 考えつつ、ゆっくりと言葉を紡いでゆく。
「淑媛さまはお亡くなりになっても、ずっと殿下のお心の中で生きておいでなのではないでしょうか」
「ー」
 ヨンは黙り込んだままだ。明華は彼の手から、そっとノリゲを抜き取った。ムラサキカタバミのノリゲを手のひらに載せ、掲げて見せる。
「殿下と淑媛さまのこの想い出のノリゲのように、殿下の中で鮮やかな花は永遠に咲き続けてはいませんか?」
 ヨンが濡れた瞳でかすかに頷いた。ややあって、掠れ声で呟く。
「そうだな、確かに、あの日、淑媛さまと共に見たカタバミの花は今も私の心から消えてはいない」
 明華は微笑んで、ノリゲをヨンの手に戻した。
「ですゆえ、カタバミの花と一緒に淑媛さまもずっと殿下のお心から消えはしません。殿下が淑媛さまを思い出される度に、淑媛さまは殿下のお側にいらっしゃいますよ」
 ヨンが子どものように、こっくりと頷く。何歳も年上の彼が今は年下の弟のように思えた。
 更に刻が流れた。ヨンはしばらく明華の腕の中で身じろぎもしなかった。明華が良い加減に手を離そうとしても、何故だか首を振るばかりだった。
「もう少し、このままで」
 まるで捨てられた子犬のように傷ついた瞳で見上げられては、突き放せない。
 明華も手持ち無沙汰なので、時々、ヨンの広い背中に回した手でトントンとあやすように叩いた。
 漸く彼が離れてくれた時、不思議なことに名残惜しいようなホッとしたような、どちらつかずの気持ちだった。
 ヨンがどこか面映ゆげに言った。
「良い年をした男が泣くなんて、みっともないところを見せてしまったな。明華にはもっと頼り甲斐のある大人の男だと思って欲しかったんだが」
 明華は笑った。
「私は今し方、何も見ていません。ですから、殿下がお泣きになったところも知りません」
 ヨンが言葉を失った。明華は自分の声ができるだけ優しいものに聞こえるように祈りながら続ける。
「それに、殿下。王さまだって、人間です。哀しいときには泣くし、腹の立つときもあります。国王さまだからと、すべての感情を殺してしまわなくても良いのではありませんか」
 ヨンが泣き笑いの表情になった。
「そなたはあどけない顔をして、何ということを言うのだ。そんな風に諭されては、年上の私の立場がない」
 明華は狼狽えた。
「ごめんなさい。生意気でしたか? それとも、国王さまに対して不敬すぎたかしら」
 刹那、明華は再びヨンに強く抱きしめられた。
「ーっ」
 突然のことに愕いたものの、ヨンの方には特別な意図はなかったようだ。
「そなたというヤツは。私がした話に震えるほど怖がっていたのに、私のことを気に掛けてくれるとは」
 穏やかな静けさがやわらかに二人を包み込む。
「ーありがとう、そなたの言葉で救われた」
 しみじみとした声で言われ、明華の心にもじんわりと温かなものがひろがった。
「そなたを知れば知るほど、やはり似ていると思うよ」
 今は誰にと問わなくても、彼が言うのが亡き淑媛を指しているのだと知れる。
 相変わらず自分が淑媛のように心映えの優れた女人と似ているとは思えないけれど、彼がそう思ってくれるなら、それで良い。
 二人して殿舎から出てきた時、既に中天にかかっていた月はかなり動いていた。思う以上の長い時間、話し込んでいたのだ。
 殿舎に入る前、ちらついていた雪は既に止んでいた。たいした降りにはならなかったらしく、地面にも雪は見られない。
 ヨンに続いて庭へと続く階を降り切った時、彼が振り向いた。
 冬の夜の庭で、純白の椿は清楚にも艶(つや)やかにも見える。
「この殿舎には、かつて淑媛さまが暮らしていたんだ」
 明華はかすかに頷く。彼から一通りの話を聞かされた今では、恐らく、そうなのではないかと見当をつけていた。ここを待ち合わせ場所に選んだのは、椿を見せたいという意図だけではなかったのだ。
 ヨンが囁くような声音で言った。
「春になって暖かくなれば、ここには無数のムラサキカタバミが咲くんだ」
 彼の口から吐息が白く立ち上ってゆく。意図してかどうか、彼は儚く溶けゆく吐息を眼で追っていた。
 いや、はるかなまなざしは、もっと別のものに向けられているのかもしれない。ヨンが今、この瞬間見つめているのは幼い頃、憧れた女人と共に見た幻の花に相違なかった。
 ヨンを通して知った、一人の幸薄い女人の生涯と、彼女が幼い王子と束の間、共有した時間。ヨンが淑媛と過ごした時間そのものは短くても、彼女はこんなにも大きな影響を与えた。
 今、明華はヨンをより身近な存在として感じられる。明華にとって、ヨンは国王でもなく、はるか雲の彼方にいる貴人でもない。イ・ヨンという優しく、心淋しい若者にすぎなかった。
「また逢ってくれるか?」
 だから、別れ際、ヨンに囁かれたときも否とは言えなかった。
 もっとも、明華は彼の正体を探ろうと志願してムスリとして入宮したのだ。彼の方から誘われたのはむしろ、その意味では好都合といえた。
 結局、この夜、彼の真実の姿を知ることはできなかったと気づいたのは、自室に戻ってからである。熟睡している朋輩を起こさないように物音を消して空いている夜具に潜り込み、室の天井を見上げた。
ー殿下が噂通りの方だとは私には思えないのです。何故、悪い噂が立つように、ふるまわれているんですか?
 あの質問の応えは返ってこなかった。けれど、彼は淑媛の悲劇を話した終わり、はきと告げたのだ。復讐のために王になったと。
ー私は大王大妃を許さない。
 とも彼は言った。
 ヨンが大王大妃に対して復讐のほむらを燃やしているのは間違いない。ならば、あの言葉こそが質問への遠回しの応えになりはすまいか。
 つまりは、彼は復讐のために女好きの暗君を装っているのではないかということだ。このまま彼の側にいれば、その明確な応えを知ることができるだろうか。
 そこで明華の思考は途切れた。後宮でも最下級とされるムスリの労働はきついものだ。昼間の疲れが出て、明華は健やかな眠りへといざなわれていった。

 次にヨンと椿の殿舎で逢ったのは、きっかり十日後であった。前日、明華は井戸端で洗濯物に精を出していた。上級女官たちから出された山のような洗濯物と格闘していた最中、どこからともなくヨンが現れたときには仰天ものだった。
ーこんなにたくさんの洗濯物をたった一人でか弱い女の子にやらせるとは、虐めに近いな。
 突然、頭上から声が降ってきて、明華は飛び上がった。
ーチ、殿下。
 慌てて前掛けで手を拭き、頭を下げた彼女を見て、ヨンは苦笑いで応えた。
ーだから、畏まるのはナシ。
 そして真顔で大量の洗濯物と明華を交互に見た。
ーこれを一人で片付けるのか?
ーええ、そうですけど。
 何気なく応えたのだが、ヨンは白皙を染めて憤った。
ー新入り女官へのいびりかもしれない。それとなくムスリを監督する尚宮に注意しておこう。
 ヨンの科白に、明華は蒼くなった。