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~王を導く娘~観相師

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「やはり、このような話をするのではなかったな。そなたのように陽の当たる場所で人の真心や優しさだけしか知らずに育った娘には、衝撃が強すぎただろう」
 いつしか、明華はフワリと逞しい男の腕に抱き込まれていた。
「可哀想に、こんなに震えて」
 大きな暖かい手が頭(つむり)を撫でてくれる。彼の触れた箇所から、じんわりと温もりがひろがってゆく心地よさに、明華は思わず眼を閉じた。
 いかほどの刻が流れたのか。多分、明華が思うほどの時間は経っていないはずだ。いつしか明華はヨンの逞しい肩に頬を預け、安らいでいた。自分が今、男の腕の中にいるとはは全然意識していない。
 ただ親鳥の翼に守られる雛のように、心から安心していられた。
 だから、ヨンの声に現に引き戻された瞬間、飛び上がった。
「実の息子でさえ、その有様だ。ましてや、血の繋がらない私など、大王大妃にとっては利用されるだけの駒、それが現実なんだ」
ー私ったら、何をしているの!
 誰もいない室で二人きり、男の腕に易々と抱かれているなんて、はしたない。飛びすさって離れた明華を見て、ヨンの面に苦笑が立ち上る。
「そんなに警戒しなくても、嫌がる娘を手込めにする趣味はないぞ」
「てっ、手込めですって」
 耳朶まで染める明華に、またヨンがおかしそうに笑い出す。
「そなたといると、本当に退屈しなくて良い」
 何だか、遊ばれているだけのような気がするが、気のせいか? ここは深くは考えないことにした。
 ヨンが首を振る。
「一番良く言われているのは、言うなりにならなくなった先代を大王大妃が抹殺し、私を冊立したという話だ。何しろ、即位した砌は、私も幼かった。当分はまた自分の独壇場になると大王大妃は考えたんだろうな」
 だが、と、彼は続けた。
「大王大妃は目先のことしか考えていなかった。言うなりになっていた幼子もやがて長じて大人になる。息子の血に手を染めてまで即位させた私もすぐに大人になった。目下、大王大妃の目障りは、この私というわけだ」
 ヨンが静かな口調で言った。
「明華、淑媛さまが亡くなった時、私は良い子になろうとする努力など糞食らえと思ったよ。嫌いだった学問に精を出したのも、すべては、あの方に歓んで頂きたいと思ったからで、別に立派な王になろうとか崇高な志があったわけではない」
 この話のゆきつくところは、どこなのだろう。明華がぼんやりと想いに耽っていると、溜息交じりのヨンの声が聞こえてきた。
「よほど努力なぞ止めようと思った。さりながら、私は今までと同じように研鑽を積み、学問だけでなく武芸にも励んだ。何故だか、判るか?」
 束の間、彼と視線が交わるも、彼の方がつと逸らす。
 少しの間があり、彼がひと息に言った。
「王になるためだ」
 その言葉は、明華には理解できるようでもあり、できないようでもある。ヨンが闇の中で微笑った。
「傀儡といえども、阿呆では困る。大王大妃が求めるのは、適当に賢く、言うなりになる王だ。ゆえに、即位するまでは大王大妃の望むままになろうと決めた」
 明華は眼を瞠った。彼は今、?即位するまでは?と言った。確かに、即位後ーというより、長じて親政を行う歳になって以降、王と大王大妃の仲は疎遠どころか険悪とさえいえ、二人の間には意見の食い違いも多いと専らの噂だ。
「何故、王になりたいと思われたのですか?」
 心のどこかで訊いてはならない問いだと思いつつも、問わずにはいられなかった。
 ヨンが静かな瞳で彼女を見た。
「復讐のために」
 刹那、ヨンの瞳を覆い尽くす闇のあまりの深さに明華は衝撃を受けた。
「私は生後ひと月で、実の母から引き離された。すべては大王大妃の権力欲を満たすために、先王に近い王族の子どもを連れてくる必要があったからだ。私にとって、豪奢な楼閣は鳥籠にも牢獄にも感じられよ。母に会いたくとも会わせて貰えない。母は私が四歳の時、出産で亡くなった。流石に死に目には会わせて貰えたが。母に会えたのは死に目も含めて、せいぜいが二、三度だ」
 彼の声がかすかに揺れた。
「孤独だった私にとって、淑媛さまは本当に母のように思っていたひとだ。誰よりも大切な、守りたい存在だった」
 ヨンの視線が文机に落ちた。机の上には、ムラサキカタバミを象ったノリゲが載っている。花びら一枚一枚に紅蛍石(ピンクフローライト)がはめ込まれ、垂れ下がった房は上から徐々に薄紅色が濃くなっている。
「このノリゲは母上が息を引き取る間際、私に下されたものだ。母は苦しい息の下から私に言った。いつか、そなたが出会うであろう大切な女にこれをあげなさいと」
 明華と、呼ばれて見つめた彼の頬は確かに濡れていた。
「先刻、私は淑媛さまに求婚をしたと話したろう? あの時、私はこのノリゲを淑媛さまに渡したんだよ。幼いなりに真剣だったから、母の遺言通り、このノリゲを淑媛さまに渡し、妻になって欲しいと頼んだ」
 その時、淑媛は幼い彼に言ったという。
ー王子さまのお心、ソファはとても嬉しいです。ですが、王子さまはまだご幼少の御身、いずれ王子さまにふさわしき姫君と出逢われることでしょう。その日のために、このノリゲは大切になさらなければなりませんよ。
「いつか燕海君さまが出会われる、あなたにふさわしき姫君に差し上げて下さいと、彼女は私にノリゲを返してくれた」
 明華は淑媛がどのような女性だったかを知る由もない。けれども、彼女が若い身空で亡くなって年月を経た今、ヨンを通して生き生きと語られる淑媛の人となりが鮮やかに浮かび上がる。
 本当に心の優しい、素晴らしい女だったのだ。彼が大切にするノリゲのムラサキカタバミの花のように、野にあっても、しなやかに凜として咲く強い花であったのだろう。
 ヨンにとって、このノリゲは二人の母の形見でもあった。実の母から願いを込めて彼に託されたノリゲは、亡くなった淑媛を経てまた彼に戻り、永遠に輝き続ける光、生命を得た。
 非業の死を遂げたのは痛ましいとしか言いようがないが、ヨンの中で淑媛は今も眩しい笑顔を涸れない花のように咲かせ続けているに違いなかった。
「私は大王大妃を許さない」
 小さなノリゲを通して今も強い絆で結ばれる淑媛とヨン。明華などおよそ立ち入れない二人の絆が少しだけ羨ましい。
 だからこそ、温かな想いに浸っていた最中、ふいに聞こえてきた地を這うような声に、明華は背筋が凍った。
 恐る恐る視線を向けると、ヨンは花のノリゲを握りしめている。本人は意識していないのであろうが、関節が白くなるほど拳を固く握りしめている。
 明華もまた無意識の中に取った行動だった。彼女はヨンに近づき、ノリゲを握りしめた彼の大きな手を自分の小さな手で包み込む。
「殿下」
 優しく労るような声音で呼ぶと、ヨンがゆるゆると面を上げる。先刻と異なり、かすかに濡れていた頬は今や、くっきりと涙の跡が見える。
 ふいに胸が苦しくなり、明華はヨンの逞しい背中に手を回した。今し方、彼がしてくれたように彼をそっと抱きしめる。
「どうか、そんなにお哀しみにならないで下さい」
「明華」
 ヨンの声が掠れた。