小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

~王を導く娘~観相師

INDEX|15ページ/44ページ|

次のページ前のページ
 

「昔、とある妃がこの殿舎で暮らしていた」
 それは先代の成祖の御世のことであったという。成祖は早くに亡くなった王妃の他には、ただ一人しか側室を持たなかった。ユン・ソファ、今では?廃妃ユン氏?と呼び習わされている女性である。
「私はその女(ひと)を母のように慕っていた」
 ヨンの声は低かった。話しながら時折、眉間を苦しげにキュッと寄せるのは、この話が彼にとってはけして愉しいものではないことが判る。
「美しい女だったよ。姿だけではなく、心がいっとう綺麗だった」
 そこでヨンはふつりと話を止め、明華をじいっと見つめた。まともに間近で見つめられ、明華の鼓動が撥ねる。
「そうだな、そなたは、あの方に似ている」
 明華は何も言えなかった。よもや、自分が美貌の妃に似ているだなどとは間違っても思わない。けれども、今ここで懐かしげに昔、慕った妃の思い出話をする彼の邪魔はしたくない。
「殿下にとって、そのお妃さまは、とても大切な方だったんですね」
 ようやっと言えたのは、そんな言葉だった。
 間を置かずヨンが頷いたところを見れば、その通りだったのだろう。
 彼は眼を細め、再び語り始める。
「私はその方を母と呼んでいたな」
「お母さまくらいに歳が違う方だったのですか?」
 いや、と、彼は笑った。とても儚い笑みは、今宵、冬空を舞う雪の花びらのようだ。
「その頃、彼女は十六歳くらいで、私は七歳だったから、母子とは言えまい。歳の差だけで言えば姉弟のようなものだが、私自身は本気で母上だと信じ込んでいた」
 明華の存在を忘れたかのように、ヨンは喋り続ける。
「私には幼いときから、ろくな噂がない。利かん気で我が儘、じっとしていることができないから、学問の師匠も次々と匙を投げた。本当に手の焼ける子どもだったんだよ」
「そうなんですか? 殿下は神童だったと、後宮では専らの噂ですけど」
 今は女好きで政に興味のない王だが、即位までは学問好きの聡明な少年であったというのは誰でも知っている話だ。
 だからこそ、毒にも薬にもならなかった凡庸な成祖が崩御し、燕海君が即位した当座、誰もが新しい王に期待を寄せたのだ。だが、現実として、燕海君は成祖の時代を懐かしむ者が出てくるほど、質の悪い君主だった。
 女好きで、普段は政治など知らん顔の癖に、なまじ頭が回るだけに廷臣たちの政に口を出す。新しい王の即位と共に、この国のより良い未来を思い描いていた者たちは一様に失望した。要するに、期待外れに終わったのだ。
 ヨンが空しい笑い声を上げた。
「ハハ、神童か」
 ややあって、自嘲気味に呟く。
「確かに、そんな風に言われていた頃もあったな。ごく短期間だけどね」
 刹那、明華は確信した。ヨンが変わったのには、何か理由があるのだ。そして、その理由とは、もしや彼が今夜、話そうとしている?廃妃ユン氏?の存在が大きく拘わっているのではないか。
「手の付けられない我が儘放題だった子どもを見事に大人しくさせたのが彼女だった」
 ヨンが遠い眼で語る。
「殿下が慕われていたというお妃さまですね」
「そう。廃される前は、先王の後宮で淑媛(スクウォン)の位を与えられていた。私はかなり風変わりな子どもでね。淑媛さまと初めて出逢った日も、雨降りの庭園でムラサキカタバミに水をやりをしていたんだよ」
「雨降りの日に、水やりですか?」
 素っ頓狂な声を出し、慌てて両手で口を押さえた。
「済みません」
 ヨンがこれは掛け値なく晴れやかに笑う。
「明華らしくて良いな。そういう飾らないところが淑媛さまに似ているんだ」
 どうやら、麗しかったお妃と似ているのは容貌ではなく、中身のようだと知り落胆するのは、やはり明華が年頃の娘ゆえか。
 しかし、雨が降っているのに、水やりとは尋常ではない。七歳にもなっていれば、その程度の分別はあるはずだが。
 明華の思惑はお見通しらしく、ヨンは低い声で笑った。
「隠さなくて良い。確かに、風変わりどころか、少しイカレていた子どもだったんだから」
 淑媛が彼を見つけたのは本当に偶然だったが、彼女は幼い燕海君に近づき、諄々と諭した。
ー花が育つには確かに水は必要ですが、雨も水ですから、雨降りの日に水やりは必要ないのです。私の申し上げることがお判りになりますか、王子さま。
 燕海君は?王嗣子?として、絶大な権力を持つ大王大妃に養育されていた。たとえ世子の地位にはなくても、次の王は彼であると皆が暗黙の中に承知していた。幼い王子がどれだけ無謀なことをしたとしても、誰も表立って諫める者はいなかったのだ。
 そんな幼い王子に、淑媛ユン氏は躊躇いなく近づき、言葉を尽くして物の道理を説いた。
「私を心から思い諭してくれた、初めてのひとだった。その日を境に、私は愚かな行いを改め、学問にも身を入れて打ち込むようになった」
 彼の物言いには、言葉だけではない情がこもっている。明華は大きく頷いた。
「だから、殿下は淑媛さまをお母君のように慕われたのですね」
「そうだな。淑媛さまに対する気持ちは、とても複雑なものだと思う。大人になった今なら判るが、多分、あの頃、私は明らかに彼女に恋をしていた。大嫌いで退屈だった学問に人が変わったように打ち込んだのも、ひとえに淑媛さまに一角の男だと認めて貰いたい一心だった」
「何となく判ります」
 明華が言うと、そのときだけヨンが剣呑な表情になった。
「明華は誰か惚れた男がいるのか?」
 明華は口を尖らせた。
「そんな男がいれば、今、後宮にはいませんよ。とっくに嫁にいっています」
 何故、応えを聞いた彼がホッとしたようなのか、明華には判らなかったけれど。
「随分とませた子どもだったのかもしれない」
 そこで二人は初めて顔を見合わせて笑った。
「もう一つ、恥ずかしい話がある」
「そうなんですか、一体、何なのかしら、気になりますね」
 好奇心に駆られて言っただけなのに、ヨンは明華の方が切なくなるような、懐かしげな表情を浮かべた。
「聞き上手ゆえ、こちらがつい余計なことまで話したくなるところまで似ている」
「私が淑媛さまに?」
「そうだな。外見もむろんだが、心の有り様とでもいうのか。自分より他の者のことを真っ先に心配するようなところ、心映えがとてもよく似ているような気がする」
「そんな風におっしゃって頂いて、嬉しいです。でも、心映えはともかく、外見はお美しい淑媛さまとは天と地ほども違いますよ」
 ヨンが吹き出した。
「以前にもいったような気がするが、そなたは少し自分を過小評価しすぎだ」
「そうーかな」
 思わず考え込んでしまう。ヨンが力強い声で言った。
「そなたは私が今まで出会った女とはまったく違う。もちろん、淑媛さまを除いてという意味だが」
「でも、それって、あまり褒められている気がしません」
 後宮にひしめく女たちは、王の側室はむろん、妃たちに仕える女官まで才色兼備である。ましてや、ヨンがそこまで慕う淑媛に自分などが欠片ほども似ているはずはないのだ。
 彼女らと違うと言われても、褒められるというよりは、あくまでも自分の垢抜けなさを指摘されているだけのような気がするのは、ひがみ根性だろうか。