~王を導く娘~観相師
妓生にした約束を忘れたのではなく、わざと忘れたふりをしたのだと彼は言った。
そこから導き出される真実は何?
明華はまだ残る頬の熱を持てあましつつ、呟いた。二月初めの冷気がかえって上気した身体に心地良い。
その後、自らの持ち場に戻った明華が監督役の上級女官から大目玉を食らったのは言うまでもない。後宮では側室たちは別として、提調尚宮は最高位である。その棲まいの厠掃除を丸ごとサボッたとして、明華は女官の更にその上の尚宮の前に引き出され、監督役の女官に鞭打たれた。
まったく、王さまの運命を変えるのも楽ではない。実のところ、根は極めて楽天的な明華は?お仕置き?の後、痛む足をひきずりながら自室に帰る道すがら、ぼやいたのだった。
三日後、明華は約束の場所ー件(くだん)の殿舎の前に佇んでいた。
三日前は気づかなかったのだけれど、殿舎の前庭には純白の椿が今を盛りと咲き誇っていた。従来はあまり位の高くない妃に与えられる殿舎らしく、建物はこじんまりとしている。
だが、椿の美しさは格別で、折しも舞い始めた小雪の中、闇に白椿が沈んでいる様は物語の世界に迷い込んだかのようだ。銀色の夜を背景にくっきりと白い椿が際立つ様は、熟練の職人が丹精込めて仕上げた螺鈿細工のように淡く夜の中で煌めいている。
「ーごめん、待ったか?」
寒さも雪も一瞬忘れ果て椿に魅入っていると、背後から声をかけられた。
明華は今日もムスリのお仕着せ姿である。振り向くと、紅い龍袍を纏ったヨンが闇の中にひっそりと立っていた。
「いいえ、私も今、来たところですから」
嘘ではなかった。明華はもう一人、一つ上の少女と相部屋である。同僚の娘は寝付きもすごぶる良いのだが、何故か今夜に限って床に入っても色々と話しかけてきた。明華は困り果て、じりじりしながら彼女が眠り込むのを待っていたのだ。
特に時間は指定されていなかったけれど、ヨンが待ちくたびれて帰ったのではないかと心配したほどだった。
「また降ってきたな」
ヨンが空を仰ぎ、明華もつられるように空を見上げる。漆黒の夜空から白い切片が舞うように地上に降りている。
真冬に降る雪は、どこか春に舞う桜の花びらを彷彿とさせた。明華もヨンもしばらく声もなく自然が織りなす美しい風景を眺めていた。
風が出てきたのか、雲の流れが速い。夜空には細い月が浮かび、灰色の雲が流れる度に月は姿を隠してはまた現れる。
「見事なものだろう?」
何がとは言われずとも、この咲き誇る椿たちであるのは判った。
「椿がこんなに綺麗なものだと改めて知ったような気がします」
明華が心から言えば、ヨンは嬉しげに顔をほろこばせた。
「この眺めを是が非でも、そなたに見せたかった」
「殿下の取っておきの宝物というのは、白椿だったんですね」
明華が応じるや、ひときわ冷たい夜風が吹きつけた。
「ここにいては二人とも風邪を引く。中へ」
促され、どこか名残惜しい気持ちで殿舎に足を踏み入れる。短い階(きざはし)を昇り、両開きの扉を開けて、最初にヨン、明華の順で殿舎に入った。磨き抜かれた廊下はしんしんと冷えている。無人の殿舎であっても、毎日、担当の女官が隅から隅まで掃除し、磨き上げている。風通しもすべての室において行うため、塵一つ見当たらない。
しかしながら、長年、住む人のいない無人の建物は、どこか荒れた雰囲気が漂うのはいかんともしがたい。
今日、ここに来るまでの間、明華は幾度となく同じことを考えた。どう話せば、ヨンから真実を引き出せるだろうか。彼が明華をかなりの度合いで信頼してくれているようなのは察せられるが、かといって全面的に信じているとは思えない。
それは当然だろう。明華が彼について知らないのと同じで、彼もまた明華という人間について殆ど知らないのだから。相手の信頼を得るには、まず自分を知って貰う必要がある。
そこが最大の問題だった。一番容易いのは、我が手の内を隠さず相手に見せることかもしれない。下手に隠し事をして一部だけを明かすよりは、すべてをさらけ出した方がかえって信用して貰えそうな気がする。
前にここで彼と話してから三日間、明華の思考は幾度も堂々巡りを重ねていたが、ここに来た時点で心は迷いなく定まっていた。
彼に信頼して貰うために、自分の手の内はすべて見せるつもりだ。回りくどい言い方、言葉を弄したりはせず、単刀直入に訊く必要がある。
ヨンは明華を振り向きもせず、早足で廊下を歩いてゆく。その広い背中はいつになく何者をも寄せ付けない頑なさを漂わせている。
ヨンはとある室の扉を開けた。彼に続いて明華も室に入り、扉をきっちりと閉める。
室内は広く、ガランとしていた。それでも、殿舎の主人(あるじ)が暮らしていた頃を偲ばせる豪華な調度類がそこかしこに配置されている。
極彩色で描かれた蓮花の衝立の前に薄紫色の座椅子(ポリヨ)が置かれ、文机があった。片隅には螺鈿細工の施された棚もある。
ヨンが上座の座椅子に座り、明華は文机を間に向かい合って座った。
しばらく二人の間に、言葉はなかった。ヨンは男性にしては長く綺麗な指で、文机の表面を撫でている。まるで愛しい女人に触れるかのような手つきだ。顔は伏せたままなので、表情は判らない。
何故、今夜に限り、彼は無言なのだろう。焦れた明華はつい沈黙を破った。
「良くない噂を聞きました」
ヨンがつと顔を上げる。灯火もつけない淡い闇の中で、二人の視線がぶつかる。そのまなざしのあまりの昏さに、明華は固唾を呑んだ。
この眼はー。そう、三日前、彼が束の間、見せたものと同じだ。宮殿には鬼が住んでいると告げたときも、彼はこんな眼をした。
「噂、とは?」
呟くような問いかけだ。明華は小さく息を吸い込み、慎重に言葉を選びながら応える。
「殿下に関する噂です」
「私に対する噂は、ろくでもないものばかりだ。良いものは何一つない」
どこか投げやりな口調は、春の陽だまりのように彼にはふさわしくない。
「何故なんですか」
再度、繰り出した質問に対し、ヨンは苦笑めいた顔で応えた。
「唐突に言われても、何を訊かれているのか判らない」
明華は真摯な面持ちで告げた。
「殿下が噂通りの方だとは、私には思えないのです。何故、わざと悪い噂が立つようにふるまわれているのですか?」
ヨンが歌うように言った。
「明華には、私がわざと放蕩者を演じているように見える?」
「はい」
しっかと頷けば、ヨンはフと淋しげに笑った。
「昔話をしよう」
ふと彼が袖から小さな巾着(チユモニ)を取り出した。薄紫のそれは随分と色あせ、年月が経っているように見える。ヨンは巾着から小さなノリゲを取り出し、そっと宝物のように文机に置いた。
「これが何の花か、判るか?」
明華は首を傾げ、しばらく花の形をしたノリゲを見つめていた。
「カタバミ、ムラサキカタバミですね」
ムラサキカタバミは初夏から初秋にかけて咲く野草である。繁殖力が強いことでも知られているが、その可愛らしい外見から、観賞用として植えられることも多い。
「そうだ、よく判ったな」
教師が子どもを褒めるような口調で言い、ヨンはノリゲを手のひらに載せ、また愛おしげに撫でた。
作品名:~王を導く娘~観相師 作家名:東 めぐみ