~王を導く娘~観相師
明華が励ますような口調で言った。
「ただ、そのときが近くなれば、ある程度は判りますよ」
「そのとき?」
「はい、例えばですが、お妃さま方のどなたかがご懐妊されるとしますよね。その時期が近くなれば、大体のところは判ります」
「どうかな、妃たちの誰かが近々身籠もるようなことはないだろうか」
明華はヨンをじいっと見つめ、フと眼を逸らした。
「私が感じ取ったことをそのまま申し上げても?」
ヨンが頷くと、明華は小声で言った。
「申し上げにくいのですが、殿下は目下のとろ、御子さまを儲けるおつもりはないのではありませんか」
ヨンの綺麗な瞳がスウと細められた。
「何故、そのようなことを?」
明華は先刻、流れ込んできたヨンの意識を思い出した。この国の王は、世継ぎの誕生をけして心から望んではいない。
明華はうつむいた。
「詳しいことは知りませんが、殿方は女人と交わる時、子を作らないようにするすべがあるといいます。今の殿下は多くのお妃さま方との間に、本気で御子をお作りになる気がないとお察しします」
途端に、ヨンが声を上げて笑い出した。
「明華には何でも、お見通しなんだな」
明華は淡々と言った。
「私は人の心を読めますが、それは意識しなければできないことです。先ほどは殿下から訊ねられたので、お心を少しだけ読みました」
ヨンがふと真顔になる。
「確かに、私は妃たちと閨を共にしても、子ができないように気をつけている。そなたが言っていた詳しいことを知らないというのは、どういう意味だ?」
判っていて、わざと困らせているのだろうか。明華は頬を熱くしながら言った。
「男女のことは判らないからと申し上げました」
「何だ、そういうことだったのか」
ヨンが納得したように頷く。ややあって、意味ありげな視線を寄越してくる。
「何なら、私がそなたにその手解きをしてやっても良いぞ。我ながら不思議なことだが、そなたとなら子を作っても良いと思える」
明華は今度こそ真っ赤になった。
「結構です」
ヨンの笑い声がまた聞こえ、明華は腹立ち紛れに言った。
「私はそんなに冷やかし甲斐がありますか」
「いや、怒った顔も可愛いから、つい虐めてみたくなる」
「最低だわ」
耳朶まで染めた明華を、ヨンが愉しげに見つめている。
「で、話を元に戻そう」
ヨンが肩をすくめた。
「芙蓉閣がどうしたって?」
何を今更と思わないでもないけれど、明華もヨンに話を合わせた。
「宴で妓生に側室として召し出すという約束をなさったと聞きました。なのに、泥酔して眠り込んでしまって、目覚めたときには、そんな約束をした憶えはないと言われたそうですね」
「だから、男に二言はないと言ったら、嘘つきだと言ったのだな」
「まあ、そういうことです」
明華が不承不承言うと、ヨンがスと近づく。彼の綺麗な顔が眼前に迫り、明華は一挙に体熱が上昇する。
ーな、なに、この近すぎる距離は。
互いの呼吸すら聞こえてくるのではないかという至近距離である。思わず身を引こうとした明華の背に逞しい男の手が回った。
「あの約束なら、ちゃんと憶えている」
「え」
明華は惚けたようにヨンを見上げた。ヨンがいっそう声を低める。
「自慢にもならぬが、私は笊だ。どれだけ飲んだとしても、酔うことはない。そんな男が自分の話したことを忘れると思うか?」
明華は呆気に取られてヨンを見た。
「何故、そのようなことをしたのですか?」
「知れたこと。この広い王宮内には人の皮を被った夜叉どもが跋扈しているからな」
「善人を装った悪人、忠臣を装った奸臣がいるということ?」
ヨンが首肯した。
「まあ、そういうことかな」
彼の手が唐突に明華から離れたため、危うく彼女はよろけるところだった。
「おっと」
ヨンがすぐに手を取ってくれなければ、本当に転ぶところだった。
「そなたもよくよく憶えておくと良い。この宮殿は鬼の住処だ。もし後宮に長居をするつもりなら、見ざる聞かざる言わざるを貫け。親切顔で近づいてくる輩を迂闊に信用するな。仲間だからと本音を漏らすと生命取りになることもある」
明華は首を傾げた。
「哀しい考え方ですね。殿下の回りには、そんなに信頼できない人ばかりなんですか」
「そなたも直に判る。ここ(宮殿)がどれだけ怖ろしい場所かを」
そう言ったときのヨンの顔を、恐らく明華はずっと忘れられないだろうと思った。
ぬばたまの闇に覆われた双眸は、奈落の底へと続いてゆくかのようだ。
ヨンが囁くように言った。
「三日後の夜、取っておきの宝物を見せてあげよう。また、ここにおいで」
口早に告げるや、彼は明華から離れ急ぎ足で立ち去った。殿舎と殿舎の物陰で立ち話していたゆえ、恐らくは誰にも見られてはないはずだ。なのに、物陰から出るときは幾度も周囲を見回していた。もどかしいほどの用心深さだった。
ーこの宮殿は鬼の住処だ。
ヨンのどこか切迫したような声が耳奥でこだまする。加えて、先刻、彼が見せた闇を宿した虚ろな眼。
一見、屈託のない優美な貴公子といった彼が時折、見せる翳りに覆われた表情が気になる。
更に、大勢の側室たちと戯れながら、いまだ世子を儲けるつもりはないと言い切った。幼少で即位した彼は、既に二十一歳に達している。まだ十歳に満たない頃に側室を迎えているため、とっくに父親になっていても良い頃合いである。
噂によれば、後宮では現在、筆頭の地位にある張貴人が世子嬪、つまり正妃に立てられるのではないかといわれていたという。張氏は良人たる国王より数歳年長である。
しかし、年少でも燕海君の意思は固く、正妻は絶対に持たないと言い張った。燕海君には絶対的存在である寛徳大王大妃でさえ、少年の世子の心を変えられなかったというのは有名な話だ。
どうやら、闇が巣喰っているのは宮殿だけではなく、若き王の心もしかりのようである。だとすれば、やはり、ヨンが酒色に溺れているのは、見せかけにすぎないのか? そして、何故、ヨンは一日も早い世継ぎの誕生が待たれていることを知りながら、わざと御子を作らないのか?
考えれば、疑問は余計に深まるばかりのようだ。
ヨンの悪しき未来を変えるには、まず、その謎解きから始めなければならない。いずれにせよ、我が身は彼について何も知らなさすぎる。まずはヨンについて知ることから始めなければならないだろう。
刹那、他ならぬヨンの声がありありと蘇った。
ー何なら、私がそなたにその手解きをしてやっても良いぞ。我ながら不思議なことだが、そなたとなら子を作っても良いと思える。
カアーっと顔がまた熱を帯びた。
「じ、冗談じゃないわ」
本当に調子が良い王さまである。そんな気もない癖に、明華をからかって歓んでいる様は、どう見ても軽い女タラシにしか見えない。けれど、明華は知っている。ヨンは、見かけ通りの放蕩者ではない。
一体、どうすれば、彼の本性を見極められるのだろう? それでも、今日、彼はとても大切なことを明華に教えてくれた。
ー自慢にもならぬが、私は笊だ。どれだけ飲んだとしても、酔うことはない。そんな男が自分の話したことを忘れると思うか?
作品名:~王を導く娘~観相師 作家名:東 めぐみ