六人の住人【完結】
5話「俺の生活、時子の混乱」
前回までの章で俺たちの自己紹介は済んだ。だから今度は、俺、「五樹」が出てきた時に俺が感じたこと、そしてその俺の生活や、その後時子が目が覚めた時の様子などについて書いていこう。
初めて俺が表に出た日のことはもう忘れてしまった。だから、ここでは俺が印象に残っている、「俺の出現」の話をしよう。
目が覚めた俺は、「やれやれ」と思った。そこはロックミュージシャンの叫び声と、ギターの轟音が渦を巻く小さなライブバーで、今は、時子が気に入っているインディーズミュージシャンの演奏中だ。
時子は、音楽が大好きだ。特にロックがお気に入りで、ビートルズからグリーン・デイまでを聴き込み、インディーズのロックライブにも出かけるようになった。最近ではブルーズまで毎日のように聴き漁っている。自分でもギターを始めて、オリジナル曲を作ってしまったくらいだ。
ところが残念ながら、俺はメジャーな音楽をただ聴いているだけで、まさかインディーズのライブ中に引っ張り出されるとは思わなかった。
その時その場には、時子と彼女の夫の共通の友人であり、その晩、時子の送り迎えを承知してくれた、「サトウさん」が居たからだ。
サトウさんは時子の夫から俺たちの事情は聞かされていたが、俺はまだ彼とは話したことはないし、ライブバーを揺るがすほどの演奏中に伝えるわけにもいかない。かといって俺は、演奏しているミュージシャンに、興味もなかった。
俺は、興味のないことにはおそろしく冷淡な人間だ。と、思う。そして、残念ながら、俺は時子の好きなもののほとんどに興味が持てないどころか、嫌いだ。
好きでもないし、関わりもない俺に、彼らインディーズミュージシャンの音楽について何かを言う権利がないのはわかりきっている。ただ、俺は人間の淵をあえて覗こうとするような彼らの姿勢が、なんとなく好きではないのだ。
“自分の楽しいことだけ考えてれば、もっと苦しくないはずなのに”
これはおそらく、俺の持つ、残酷な無関心だろう。だが、時子は違う。彼女は、インディーズロックがほとんどの場合に持つ悲惨な嘆きの声に、必死に耳を傾けて、自分が傷ついてもそれをやめることがないのだ。
つまり時子は、愛するもののためなら、自分の傷や疲労を顧みない。そのために傷つくから、俺は時子の好きなものを好きになれないのだ。
酷いうつ状態と言い渡されている状態で夜のライブに出かけていくだけで、もう彼女は倒れてしまいそうなくらいなのに、時子は労力を惜しまなかった。だから俺は今、疲労し過ぎた時子の代替品として呼び出され、体を任されたんだろう。
俺は、椅子に座り続けで凝り固まった時子の体を、少し揺する。
“ああ、いつもこうだ”
俺が目覚めた瞬間は、いつも強い疲労感を感じる。それは間もなく俺の持つ特徴である、リラックスした心にほぐされていくのだが、目覚めた瞬間は、まだ俺は時子の疲労を感じている。
“こんなに疲れていて、よくこの子は死なないな”
俺はいつも、素直にそう思う。時子はいつも、“もう生きてはいけない”というほどの疲労を抱え、人間への凄まじい恐怖に晒されている。でも、彼女にはそれは当たり前なのだ。
虐げられ続けた幼い頃から、生活に疲労し、恐怖し続けるのが自分の人生と思い込んできた時子。だから彼女はそれを当たり前に受け止めている。
時子は10代の半ばに、「疲れてない瞬間なんかなかったんだから、無理をしてやればいいんだ」と、無理やり自棄に決めてしまった。そのことが自分を今も追い詰めて、俺のような者に命を与えてしまう原因になったことも、まるで知らずに。
そのすぐ後に俺と時子はまた交代して、少しだけ眠っていたと時子は思い込んだのか、そのまま、「美しい歌」と彼女が感じている、“傷つくほど情感的な音楽”に興奮していた。でも、まだ俺の出番は終わらなかった。
そろそろ店が閉まる頃合いになった時、時子はライブバーに“楽しませてもらったから”と、すぐに飲み切れるウーロン茶を注文しようとした。でも、「どれにしますか?」と聞かれた瞬間、何を頼んだらいいのかわからなくなってしまったのだ。
結局時子は、退店直前にジンのロックを頼んだ。
時子は、疲労が濃い時には、判断力が鈍る。“ウーロン茶にしようかな”と思っていたところを、ジンを頼んでしまうほど。それが「うつ状態」というものだ。
そして、困って混乱した時子に、俺はもう一度呼び出された。
俺の手の中には氷がたくさん入っているおかげか、小さなグラスの半分ほどまで入った、ジンのグラスがあった。
俺は時子に比べて、多分、桁外れなほど酒に強い。時子はジンのロックならワンショットを一時間掛けて飲むが、俺はクイッと飲み干すことくらいならできる。
「はい、帰りもローディの練習ね」
同行していた「サトウさん」は、俺の存在を知らずに、「時子」に向かってそう言った。俺は事情を説明する間もなく、サトウさんに車に乗せられる前に、手に持つタイプのギターケースを肩に背負う。
「あれっ?」
サトウさんは俺を見て、ちょっと面食らったようだった。
サトウさんは店に着いた時、時子には重すぎるギターケースを渡し、「ローディでもやってくれない?」と言った。その時には時子はそれを四苦八苦しながら運んでいたはずが、俺はそれを、肩にひょいと抱え上げていたからだ。
俺は一応23歳の男性なので、力はそれなりにある。時子と俺は体は同じものなのだからおかしな話かもしれないが、そうなっているんだから仕方ない。
でもサトウさんは首をひねってからも何も聞かず、そのまま俺たちは車に乗り込んだ。
「コンビニ、寄ってくれませんか。腹、へっちゃって」
俺がそう口にしても、サトウさんはまだ何も気づいていないようだった。俺はコンビニでハンバーガーとおにぎりを買い、さらに揚げたチキンも買った。
「なに、すごい量食べるね」
俺は慎重に考えつつ、時子がたまにこうして人格の交代をすることを打ち明けるタイミングを見つけた。
「20代は食べ盛りですから」
「あれ…?もしかして、時子ちゃんじゃない…?」
そこで俺は今夜二度も俺と時子が交代したことを打ち明け、時子の身の上話と、体調について語り、最後に、「ハンバーガーはハンバーガー屋だな」と言って見せた。
それまで、重苦しい雰囲気に包まれた場は和み、サトウさんは、「まあそうだな」と笑っていた。しかし、そこで俺は強い眠気を感じ、目を閉じた。
目が覚めた時子は、今までライブバーで飲み切れない酒に悩んでいたはずが、“どうやら帰りの車の中のようだ”とわかると、途端に泣き出した。
「どうして…こんなことが起こるの…!?」
涙声で喉を引きちぎるように、時子はそんな言葉をひねり出す。サトウさんは、混乱して泣きじゃくり続ける時子に「大丈夫だよ、大丈夫」と言い聞かせていてくれた。
“俺たちは、やっぱり消えるべきだ”
俺はこんな時、時子の裏側にある心の中、そう願うのだった。