六人の住人【完結】
6話「六人目の住人」
俺はその時、凄く焦っていた。体が動かない。息が苦しい。そればかりに気を取られて、自分のせいで時子を追い詰めていたことに気づかなかった。
救急隊員が到着して救急車に乗り、少し経ってから、「五樹」という俺ではなく、時子が目覚める。
時子は今日、家でエアロバイクを漕いで疲れてしまって、俺に交代した。俺は「体調がかなり悪くなっているな」と気づいただけで、その不安から、結果として軽い過呼吸状態が続いて、体を動かせなくなっていたのだ。
救急隊員を目の前にし、急に景色が救急車の中だとわかった時子は、混乱しながらも、「取り乱してしまったら、心配を掛けるから」と思ったのか、「今は何時ですか?」とだけ隊員に聞いた。それに「3時です」と返事をもらってから、「知らぬ間に時間が過ぎている」と混乱し、もう一度病院で目覚めるまでは、また意識を手放した。
病院に着いた頃から、出てきた順番だけを、簡単にここに書く。
「桔梗」、そして俺「五樹」、それから「時子」、その後最後に、「美月(みづき)」だ。
俺たちの主人格、「時子」は、たくさんの薬を飲んでいる。精神疾患と糖尿病に由来するもので、その処方の絶妙なバランスは、その時救急で対応した内科医には、理解は不可能だっただろう。現に医師は、飲み慣れてしまえば感じなくなる副作用の「眠気」について度々口にして、「私の言うことはお判りにならないと思いますが」と言った。
時子が目覚める前に、初めて医師に対峙したのは「桔梗」だった。
その時は病院に着いたばかりの時子に、医師が「こんなにお薬を飲んでいると、何が原因かわからないので、検査をすることくらいしかできませんし、それはおすすめしますが、おうちで安静にしていても大丈夫なくらいだったんですよ」と、説明をしていた。
救急車を呼んだのは俺だ。だから俺なら、「今までに感じたことのない体の動かしづらさ」について、説明はできた。でも、桔梗なら話は別になるだろう。
桔梗は、時子を死に至らしめることしか考えないような、冷酷な奴だ。だから桔梗が目覚めて医師の説明を聞いた時、奴は「では、帰っていいんですね?」と言った。
それで医師は混乱し、そしてそのあと一瞬だけ俺が目覚め、すぐに時子に交代した。
時子は、医師が「家で安静にするか、もしくは検査だけをするか」と、二つの決断の間で繰り返し揺れ続ける文言を、聴いていた。それに、時子にとって、自分に対する気遣いを誰かにさせること自体が「悪」だった。
時子は、“自分は早く迷惑にならないように死んでしまわなければ”と、思い詰めたままで生きている。そこに医師から「大したことがないのに」といった態度を取られれば、急に「帰る、帰る」と言い出すのは目に見えていたのだ。
案の定時子は、医師が電話をし始めた途端、激しく泣きじゃくり出した。
「帰りますから、もう大丈夫ですから、ごめんなさい、救急車を呼んだ覚えはないけど、帰りますから」
そして時子は本物の過呼吸状態になった。でも、それでも彼女は自分を保とうと懸命に闘った。
時子は、そばで自分を慰めてくれた看護師に、「五つを繰り返し数えて下さい、それで過呼吸を鎮めます」と、切れ切れになった息で伝え、看護師が「1、2、3、4、5…」と数え続ける間、五秒間息を吸い、そして五秒止め、もう一度五秒掛けて吐く…という作業を繰り返した。
その後、時子が眠ってしまった時に目覚めた新しい人格が、「美月」だった。
俺は時子の夫が迎えに来て家に帰ってから、反省をした。
時子は確かに、今朝は体調が良くなかった。それに、何も食べていないのに、運動をした。でも、そこまでさほど悪いというわけではなかったのだ。ところが俺は、時子の心配をするあまりに、俺自身が不安からごく軽い過換気症候群の状態になり、結果としてさらなる不調を生んだ。
焦って救急車を呼んでしまったがために時子は傷つけられ、追い込まれて、「美月」という新しい人格が生じた。
「美月」は、どういうわけか、その日に生まれたはずが、32歳の時子より、4つも年下だった。普通、新人格が生まれる時、年齢はその時の主人格の実年齢とピタリと合うはずなのだ。と、なんとなく俺は思っていた。
でも、後から分かったのだが、初めて時子がパニック発作を起こしたのが、28歳だったらしい。そのあたりと関係があるのかもしれないが、俺には判然としない。
美月の性格はとても奔放で、朗らかではあるが考えなしのところがあり、俺は気軽に“心配し過ぎの馬鹿”と評されている。そのことについて、今はまだ文句も言えないが、美月はこうも言った。
“病院でこの子と代わってあげて事態を丸く収めたのは私なんだから、感謝しなさいよね。あんたは馬鹿真面目過ぎるのよ。少しは時子に任せないと”
桔梗のような奴のことを知っているのが俺たちだけなら、俺たちが真面目に取り組まないのはどうかと思う。それで、“どうもこいつもあまり頼りにならないな”、と俺は感じた。
“誰かが考えてやらないと、この子を守れないだろう”
俺がそう言って、何も考えてやらない美月を責めた時、美月は長い髪を片手ですき上げて自分の部屋のドアを開け、こう言い残していった。
“確かにそうだけど、それは最後には時子がやらなけりゃいけないんだから、あんたが肩代わりできるわけないのよ。そんなこともわかんないの?”
じゃあ俺たちが居る意味ってなんだ?自分の感情って自分のためだろ?それなのに、切り離された感情である俺たちは、この子のために、時子のために、何かしちゃいけないってのか?
俺はそう思って混乱したまま、翌朝になった今でも、反省に追われている。