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病院が第二の家になった立川の見舞いに行ったときに、聞いた話。自分自身がドロップアウトだった立川は、社会からはじき出された人間を掬い上げるセーフティネットのような役割を果たしたかったらしい。病室には、弁護士や税理士が医者よりもまめに訪れていて、立川はあっさりと死んだ。勝手に話をまとめていたことが分かったのは、その病室をうろうろしていた弁護士から電話がかかってきたときだった。三年前、二〇一八年の五月。当時は幸平の結婚式の準備で忙しく、どういうわけか、おれが美佳子からよそに出ても恥ずかしくないマナーを仕込まれていた。そしてその電話で、おれの人生もまた変わった。
今の代表取締役は、創業者に縁もゆかりもない、おれ。もちろん、ドライバーも兼ねている。桂は専務で、経理兼、ドライバー兼、弁当発注担当兼、車検担当兼。兼務があまりにも多いが、元々真面目な性格だから、暇には耐えられないというのが口癖だ。実際能力は高く、どんなことでもてきぱきとこなす。新しい会社に生まれ変わった立川運輸の昔を知る人間は、ほとんど残っていない。丸川は体を壊して何年も前に辞めており、往時を知る最年長は六十六歳の新庄。今週を最後に引退するから、来週からはドライバー全員が新世代になる。気の長い話だったが、新庄が辞めることに関しては何の感慨もない。
今、コンドルの運転席に座って街を走りながら思うのは、会社名や電話番号を消されても、この独特なコーンポタージュのような色を地元の人間は覚えているのではないかということ。イメージカラーを薄いブルーに変えたのは、おれが代表になって一年が経ったときだった。珍しく事務所で桂と飲んでいて、あのカシミヤイエローはどこから来たのかという話になった。どちらも答えが出るわけがなく、その日のうちに新しい色が決まった。
代表になって、おれが自分で必要だと思ってやってきたことは全てドライバーに引き継いだ。朝礼とラジオ体操、夕礼と日報という習慣が作られた。未経験者を歓迎するポリシーだけは、今でも変わっていない。おれも桂も、それに救われた人間だから。
それでも、色々なところで、各々のスピードで時代は変わる。立川運輸の車検整備を三十年担当していたコスモテクニカルセンターは、今月で閉業することになった。おれが店の前に長い車体を寄せて停めると、かつておれをクビにした中西が軒先で手を挙げた。
「懐かしいやっちゃのー、コンドルやないけ」
当時、立川運輸に就職して、客の立場で訪れ始めたおれに対して、言い訳のように中西が言っていたこと。おれが立川運輸に転職できたのは、中西と立川の間で裏取引のようなものがあり、それなら早見をくれという立川のひと言で動いたらしい。そのときは感激したが、何年かしてから立川に聞いたら『なんじゃそれは』と言って笑っていた。店の名前は凝っているが、中西は昔からいい加減な男だった。
そして今は、生き残った側としてこちら側に若干の気まずさがある。おれは運転席から降りると言った。
「骨董品ですわ」
用事は単純。伝票なり部品なり、少なからず預けていた部品を取りに来た。倉庫とまではいかないが、結構な量の段ボール箱があり、おれは中西と一緒に荷台へ動かしていった。
「倉庫代わりにしてすんません」
「タテやんからしたら、庭みたいなもんやったからな」
「店長、やっぱ世界一周しはるんですか?」
中西が語っていた夢は、クルーズ船の世界一周。延々と入庫してくる車の列が途切れたら行くと言っていたが、それは忙しいときにだけ現れる蜃気楼のようなもので、それが可能になったからといって、今の中西にそれができるとは思えなかった。実際、痛いところを突かれたように、中西は苦笑いを浮かべた。
「この年で? しんどいわ」
割れもの注意と書かれた段ボール箱だけ助手席に置くと、おれは帽子をかぶり直した。新しい整備工場とはすでに話をつけているが、いちから説明しなおすのは正直面倒くさい。
「この工場で最後に整備したんがこのコンドルなんは、なんかの縁かもしれんな」
運転席のドアを開けたおれに中西が言い、おれと中西は握手を交わした。知っている人間が、少しずつ代替わりしていく。広い国道に出たとき、電話が鳴った。ハンズフリーの通話ボタンを押すと、桂が言った。
「東工場で、急で納品したいやつがあるらしいです」
今居るのは、運送エリアで言えば西の端っこだ。高速を使う必要がある。
「他の人間、段取りでけへんか?」
「予定詰まってるんですよ」
「了解。どない行っても一時間はかかるて、先方に言うといてや」
桂は配車も担当しているから文句は言えないが、途中サービスエリアに寄る時間ぐらいはあるはずだ。こうやって無茶を言ってくるときは、カツキンと呼んでやりたくなる。もちろんそうすることはないが、それはこの名前を思い出すと、大橋もセットでついてくるからだ。おれは高速道路の入口で止まると、窓から手を伸ばした。コンドルにはETCなどついていない。昔ながらの通行券を受け取り、迷惑にならないぎりぎりのスピードで老体を走らせて、すぐに見えてくるサービスエリアで端に寄せると、おれは段ボール箱が荷崩れしていないことを確認して、運転席に戻った。何年も、下道を往復する程度の使い方しかしていない。それでも、コンドルの運転席は煙草をふかしながらソファでくつろいでいるような、安心感があった。古い世代を知る、最後の生き残り。カツキンより前の時代を知っているのは、ついにおれとこのコンドルだけになってしまった。そして、この段ボール箱と。おれは腕時計の文字盤を読んだ。実際に一時間かかるかというと、そうでもない。十分ぐらいなら、自分のやりたいことを挟む余裕がある。おれは段ボール箱の中身を開けた。割れもの注意と書いてあるから車内に入れたが、中身の埃っぽさと適当さも相当なもので、忘れ物に混ざって店が保管するはずの伝票が詰め込まれていた。
例えば、一九九九年七月七日の、コンドルの修理。この頃はまだカツキンがおらず、おれが担当だった。七夕の日に突然エアコンが潰れて、外気を忠実に車内に吹き込むだけの拷問器具に変わった。預かり伝票にはおれの署名があるが、暑さで苛々していたに違いない、荒れた字だ。伝票だけではなく、同じ時期に立川が大量に買わされそうになっていた、怪しい栄養ドリンクのチラシもあった。でこぼこ道であったとしても、こうやって歴史を辿れるというのは、幸せなことだ。桂は同じようには思わないらしく、銀行員時代のことすら、今でもあまり話したがらない。奴にとっては、今が全て。