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オオサカタロウ
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novelistID. 20912
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 七人の会社。トラックは全車ユニックで、五台。最も古いのは九十七年型のコンドルで、何度も重ね塗りしすぎた荷台は家の外壁のような見た目をしている。色は会社が昔採用していたイメージカラーの、カシミヤイエロー。二十年ほど前に家族を連れてきたとき、息子の幸平はコーンポタージュの色と言っていた。立川運輸という屋号は、創業者の立川から取られた。元々は立川グループの鋼材加工部門から、加工品の運送だけが分社される形で、三十年前に設立された。立川隆一は、本人が天寿を全うした今だからこそ言えることだが、鉄で財をなした立川一族の中では最も使えない男で、確かにその片鱗はあった。花形は当然ながら加工で、立川運輸の仕事は、『取りに行って積んで走って降ろして帰って来る』だけ。
 おれが入社したのは、創業から四年ほど経った、九十五年の春。当時、おれは三十歳。コスモテクニカルセンターという凝った名前の整備工場で、立川運輸のトラックを整備していた、その工場が地震で粉々になって、復旧に当たって整備工全員にメシを食わせられなくなり、三人いた整備士の内、一番若かったおれに白羽の矢が立った。早い話がクビになったのだ。妻の美佳子は、おれの甲斐性にそこまで期待していなかった。幸平は四歳で、おれが趣味で自分の車の下にもぐるのを、よく観察していた。これも週末だけならいいが、毎日はやっていられない。
 最後の出勤日、全壊から半壊ぐらいにまで復旧した工場を見に来た立川が、作業服の『早見』と手書きされた名札を外しているおれに気づいて『自分、辞めるんか』と言った。その言葉の響きは、今でも覚えている。立川の後ろで、手狭になったリフトに乗せられていたシルバーのダイハツクオーレがバラバラに分解されていたことまで。立川は『辞めさす順番がおかしい』と言って怒った。おれからすれば苦い形でお別れすることになったコスモだが、今でも点検整備や車検の付き合いは続いている。とにかく、そうやっておれは立川運輸の従業員になった。玉掛けの資格を取り、日曜のみ休日、それ以外の日は朝六時半から十六時という朝型の勤務が始まった。実態は、十九時くらいまで残業していた。
 従業員は四人いて、おれが入ったことで五人になった。家族がいて後に引けないおれは、先輩方の言うことは何でも聞いた。リーダー格は川原という六十前の男で、面倒見は良かった。次男坊的な扱いの大橋は四十代で体育会系。川原は酒の席で、おれは体格が大きいから『免除』されたのだと言って、笑っていた。何を免除されたのかは分からなかったが、立川運輸の仕事が体に刻まれるまでは、さほど時間はかからなかった。トラックの下にもぐっているとき、『あいつ名前の割りに遅いな』と笑う大橋の声が聞こえてきて、それがおれのことで、名前になぞらえて何かを言う性格だということが分かった。確かにおれの名前は『早見』だが、最短距離でぶっ飛ばすイメージとはほど遠い。出社は六時ちょうど。作業服に着替えたらラジオ体操をし、トラックの点検をする。ルートにもよるが、休憩するのはたいてい巨大な陸橋の柱をぐるりと周回する転回路。折り返し地点で、必ず荷台が空になった状態のときに、五分だけ停車して目を瞑る。おれの機械のような行動様式を、立川は気に入っていた。
 時間はあっという間に過ぎて、いつの間にか二十一世紀に入り、幸平が中学校に上がった年に、六十後半に差し掛かった川原が辞めた。従業員の力学は、集合写真には写らない力関係でかろうじて均衡を保っている。どんな人間がどのように集まっても、そのバランスは危ういところで止まるようになっているらしい。最年長が大橋になったことで、おれがかつて『免除』されたらしい何かを止める人間は、いなくなった。すぐには変化は起きず、おれは相変わらず『免除』されたままで、当時からいた丸川と新庄は良好な関係を保っていた。変化が起きたのは、立川が求人を出して、桂金太郎という名前の男が採用されたときだった。履歴書からして、嫌な予感がした。苗字が『かつら』で、下の名前は『かねたろう』と読むらしいが、大橋にどう料理されるかなんて予測するまでもない。三十半ばで、履歴書の写真はきっちりと七三分けにされていた。桂は、地銀をリストラされた元銀行員で、学生時代にバイトでトラックを転がしていた。入社日は五時半から門の前で待っていて、おれはラジオ体操を飛ばす羽目になった。目つきはプライドをへし折られた痕がはっきり見れるぐらいに泳いでいて、おまけに小柄。おそらくおれのように『免除』はされないと思っていたら、その日のうちに呼び名が決まった。そんなわけで、カツキンが入社してすぐに、従業員の力学はねじ曲がった。リーダーの大橋がいて、その大橋に一目置かれているおれがいて、大橋の手足である丸川と新庄がいた。試用期間があるとはいえ、カツキンは数に入っていなかった。割り当てられたのは例の九十七年型コンドルで、元はおれが乗っていたものだ。
 おれが乗っている間は問題のなかったコンドルだが、カツキンが乗るようになって様々な不具合が起きるようになった。エンジンが焼き付きかけて帰ってきたことすらあり、オーバーヒートと勘違いしてエアコンを消して帰ってきたカツキンは熱中症寸前になっていた。立川が本当に『取りに行って積んで走って降ろして帰って来る』のを見ているだけだということに気づいたのも、その頃だった。そして、『免除』されていたおれが切れたのも。経費精算の書類を書くためにひとりで残業していた大橋を捕まえて、コンドルのクレーンで吊り上げたままひと晩放置した。夕方に一番遅く帰るのも、朝一番早く来るのもおれだったから、大橋は誰にも助けられることがなかった反面、誰にもその姿を見られずに済んだ。ただ、朝降ろしたときには隙間なく蚊に食われていた。その次の日、トラックを洗車しているとカツキンがやってきて、七三分けの頭をぺこぺこと下げながら礼を言ってきた。そうやって力関係は、集合写真の見た目通りになった。
 年月が過ぎて、今は二〇二一年の九月。おれは五十六歳。身の回りではありとあらゆることが変化したが、立川運輸は今でもある。三年前に六十七歳で死んだ立川隆一は、還暦を迎えた辺りで実業からは身を引いて半隠居状態になった。今思えば、新聞に頭を下げる姿が載ってから、完全に気力を失った。
 十年前、二〇一一年六月七日。大橋の運転するキャンターが、片側一車線の直線道路で信号待ちをしていたミラココアに時速四十キロで追突した。ミラココアは歩道に押し出されてその先にはベビーカーを押す母娘がいた。母は両足を骨折、ベビーカーに乗っていた娘は即死し、立川運輸のロゴとカシミヤイエローの車体はテレビで幾度となく報道された。大橋は、機械のような行動様式を持っていないどころか、その逆だった。言わば、体調とトラックが連動しているタイプ。そんな大橋が言っていたのは、『確かにブレーキのタイミングは遅かった』ということと、『ブレーキを強く踏んだら横転しそうになって、止まるのが遅れた』ということ。それで、真面目に話を聞く人間はいなくなった。大橋が消えて、従業員の力学はまた変化した。
作品名:Rev 作家名:オオサカタロウ