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オオサカタロウ
オオサカタロウ
novelistID. 20912
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 大橋のキャンターを整備した伝票もあった。中西の走り書きのような字で『左リヤーブレーキ一式交換』と書かれている。その上には『カタギキのため』と暗号のような文字が書かれていた。おれはナンバープレートを見て、それがまさに、あの母娘を殺したキャンターだということに気づいた。カタギキというのは、中西が漢字を思い出せなかっただけで、『片効き』のことだろう。片方のブレーキだけが強く効く状態になることだ。左だけ交換して終わらせる辺りが、いかにも中西らしい。おれは日付を見た。作業日は二〇一一年六月五日。事故の二日前。署名欄には、丁寧な字で桂金太郎と書かれていた。
 おれはしばらくの間、その字を眺めていた。事故は火曜日だった。ということは、六月五日は日曜日で、休日だったはずだ。それにどうして、桂が大橋のキャンターを持って行ったのだろう。担当のトラックは決まっている。この頃は、桂はこのコンドルに乗っていたはずだ。大橋が仕掛けるいたずらで調子は悪かったが、それでもキャンターに乗る理由はなかったはずだ。そもそも、大橋のキャンターは片効きしている状態だったのだろうか。
『ブレーキを強く踏んだら横転しそうになって、止まるのが遅れた』
 大橋の言葉。おれはずっと、言い訳としか思っていなかった。実際、おれとは違って、大橋はエンジンブレーキをあまり使わなかった。丁寧にギアを落としていくのを面倒がっていたのだ。だから、長年トラックでメシを食ってきた人間が、最後に自分の責任を商売道具へ押し付けたというぐらいにしか、思っていなかった。しかし、左のリアブレーキだけ交換したことで、その症状が発生したのだとしたら? いつもの感覚でブレーキを踏んだら、車体は急激に左に逸れたはずだ。
 何かが起きるのを心待ちにしていて、それが人に知られてはならないような内容であることは、多々ある。おれが宙づりにしてから、大橋が桂のことを不名誉なあだ名で呼ぶことはなくなった。桂は、おれに感謝していたようだったが、それとは別に、自分なりに解決する方法を考えていたのだろうか。カツキンという立場から永遠に脱するために。
 しかし今は、桂はもうカツキンじゃない。立川運輸の専務だ。おれは桂の携帯電話を鳴らしたが、留守電に変わっただけだった。とにかく、仕事を片付けなければならない。話すのはその後だ。今更どうにかしようという気もない。罪があるとして、償える時期はすでに過ぎている。ただ、おれだけが知っている状態で、朝普通に顔を合わせるわけにはいかない。高速道路に合流し、大型の連中がキープする時速九十キロに合わせて、おれは助手席を何度か確認した。伝票が、路面のショックを拾いながら飛び跳ねている。本当にあいつがやったことなのだろうか。大橋の単独事故じゃない。人が死んでいるのだ。
 電光掲示板に『この先渋滞』という表示が出ていて、おれは歯を食いしばった。タイミングが悪すぎる。しばらくの間、出口はない。思わずアクセルが緩んで車間距離が空き、前を走る大型との間にホンダライフが入り込んできた。伝票が箱から飛び出すように落ちて、反射的に手で押さえたとき、フロントガラスに貼られたステッカーが目に入った。
 二〇二〇年、十二月八日。定期点検で去年の冬に持って行ったのが、最後だ。
 おれは、コスモテクニカルセンターの番号を鳴らした。中西が電話を取るなり、おれは言った。
「さっき、話したことなんですけど」
「おう、仕事終わったら来るか?」
「コンドルが最後の仕事やって、言ってませんでした?」
 下りに続く長い上り坂の先で、渋滞に気づいた車がハザードを焚き始めた。中西は記憶をほじくる効果音を出すように唸った後、言った。
「最後やで、こないだや。桂さんが持ってきた」
「カツキン、なんて言うて、持ってきたんですか?」
 おれが言うと、中西は笑った。
「その名前はやめたりや。その頃のあいつを知ってるん、早見くんだけなんやから」
 伝票をめくる音が聞こえ、中西は続けた。
「ブレーキが片効きする言うてた。左だけ換えといたで」
 何かが起きるのを心待ちにしていて、それが人に知られてはならないような内容であることは、多々ある。もしそれが、最後のひとりになることだとしたら。鮮やかなブルーの車体と、カツキンのことを誰も知らない、小さな王国。その中にかつて存在した、大橋を中心とする五人組の輪。その最後が、おれだ。桂は待っているのだ。事務所にひとり残って。おそらくは警察からの電話を。
 大橋はどうなった? 奴は足から力を抜いた。おれは、どうすればいい? 今このブレーキを強く踏みこんだら、車体はどうなる? ホンダライフが突然視界に入り、条件反射がハンドルを握る手に伝わった。ずっと先を走っていたはずなのに。
 目の前で、ハザードを焚いている。
作品名:Rev 作家名:オオサカタロウ