鈴蟲
その上に落ちた遠雷は、強《したた》かに腰を打った。骨にみしりと嫌な感触を憶えたが、それは一瞬だけの事で、ただ呼吸が止まって苦しいのと、強打した右肩が外れたのか強烈な灼熱感に割に腕そのものは痺れたような鈍さがあるばかりであった。
頭はかろうじて腕で庇《かば》ったものの、黒い頭髪の中に鮮やかな緋《あか》を見せる大きな傷は、まるで老人が投げて弾けたあの西瓜の断面を思わせた――。
暫らくすると呼吸が出来るようになった。しかし息を深く吸うと胸に激痛が走る。どうやら肋《あばら》も折れたようである。声を出すことも適わなかった。
遠雷は仰向けのまま月を見ていた。
月光は煌煌と冴え渡り、ゆっくりと流れる薄雲に反射して空は明るかった。
じっとしていればさほど痛みは感じなかった。しかし、怪我の程度が決して軽くは無い事は分かっていた。腰から下には全く力が入らず、右肩は首を動かしただけでも激痛が走り、脂汗が流れてくる。
と、視界の片隅に黒い小さな影が見えた。そしてそれはしたりと遠雷の胸に落ち着いた。
遠雷の部屋の窓から飛び降りた鈴蟲であった。そいつは始めは尻を向けていたが、ゆっくりと身体の向きを変えて遠雷と向き合う形となった。遠雷の全身が粟立った。
それはやがて翅を拡げると風鈴とは明らかに違う、ゆっくりと美しくも悍しい音色を奏で始めた。
「やめろ、仲間を呼ぶんじゃない」恐怖に引き攣る遠雷の叫びは声にはならなかった。
そんな遠雷を嘲笑うかのように鈴虫の声は一層高らかに月明かりに響いた。
「やめろと言うに」堪らずに遠雷は動く方の掌で胸の上の蟲を叩き潰した。
折れた肋骨と外れた肩だけでは無い。身体の至るところが悲鳴をあげた。
「うあああ」僅かに零れた声も既に其処ここで起き始めた蟲の音の中に吸い込まれるだけである。
蟲を潰した掌の上に新たな蟲が跳び乗った。そして間髪を入れずに又一匹。
気がつくと動かない右腕には幾匹もの蟲が停まり黒い斑模様を作っていた。それと同時に針で刺す様な痛みと怖気が体中を駈け巡った。