鈴蟲
「わかったよ。旦那さんからは外しちゃなんねって言われてるんだけど、お客さん良い人だから」
朝顔は格子の開き窓を開けて軒に吊るしてあった物を外す。
外したそれは小さな椀を伏せた様な形をした鉄製のもので、短冊のようなものが下がっていた。
「ほらこんなの」朝顔が風鈴を窓際の棚に置くと、遠雷はやっと肩を撫で下ろした。
朝顔の給仕でがつがつと食事を平らげ、瓶子の酒を飲み干すと、眠るから出てゆけと朝顔を部屋から出した。
もしかしたら朝顔は多少若過ぎるが金さえ出せば買えるのかもしれないと思ったが、兎に角今は眠りたかった。寝台に横になると間もなく遠雷は大きな鼾《いびき》をかき始めた。
どれほど眠っただろうか。
既に深夜と言える時刻になっていると見え、階下からの人の声も聞こえてこない。開け放たれた窓からは月の冷たい光が差し込み、部屋の中を薄っすらと照らしていた――。
遠雷は何とも言えない違和感に苛まれて寝台から半身を起こした。
それは胸の上で鳴いていた。
黒い肢体は六本の脚に支えられ、立上げた翅を細かく震えさせて美しい音を奏でていた。
遠雷の服に僅かについた西瓜の汁でも舐めているのか、遠雷が起きた事さえも気が付いていない様だった。
遠雷の脳裏にあのおぞましい光景が蘇える。
あっという間に黒い山と化す小さな蟲の群れ。
翅をわさわさと揺するのがいつか同期して波打つように広がる様。
そして耳もとで鳴いているかのような大音響で奏でる音色。
遠雷は恐怖に立ち上がり、手で鈴虫を払った。
床に落ちた鈴虫は、それでも無遠慮に遠雷に近付こうとする。
そして、遠雷は鈴虫とは反対歩行の窓に駆け寄り、何の躊躇《ためらい》いも無く窓から跳んだ。
通常より高い二階とは言っても、せいぜい足の骨が折れる程度の高さの筈であった。
だが、酒に酔っていたからかも知れない。或いは慌てていた所為であろうか。遠雷は窓の枠に脚を引っ掛けて横様に落ちて行ったのだ。
しかも運の悪い事に、窓の下には撒き割りをするための台、即ち硬い無垢《むく》の木の台が在ったのである。