鈴蟲
「そういや名乗っていなかったな。俺は遠雷というもんだ、あんたは?」遠雷は歩きながら老人に尋ねた。
「儂はただの西瓜売りじゃ。今日も街に行って西瓜を売って来た帰りじゃ」老人はにんまりと満足そうな笑みを浮かべる。
「ほぉ、で、売れたのかい。荷車に残っているところを見るとあまり芳しくなかったようだな」この時、遠雷の表情が微かに動いた事に老人は気付いていない。
「バカをいうでねぇよ。売りもんは全部売れただ。残った分はさっきみたいに虫に追いかけられた時にあいつらの気を逸らす為のものじゃ。喉が渇けば儂が喰っても良かろうしの」
「なんだ、そうなのかい」遠雷は老人の頭から爪先までを確かめるような目つきで見る。
「ところで爺さん、思わずあんたに付いて来ちまったが、こっちは俺が行きてぇ方向とは違う。このまんまじゃさっき通り過ぎた小さな村に戻っちまうぜ。俺は反対の大きな街に行きてぇんだよ。それに……」
「え」老人が怪訝《けげん》そうに振り向く。
「いや何でもねぇ。だがどうしても戻るわけにゃ行かねぇ」
出奔してからの流浪生活は遠雷の人柄をすっかり変えてしまった。始めの頃は夜陰に乗じて畑の作物を盗み、人家の庭先から物品を持ち出した。そんな暮らしを続けてゆくうちに空き巣、強盗、追い剥ぎなどを憶え、近頃ではかつての商人だった頃の面影はまったくと言って良いほど残っていなかった。
その日通り過ぎた小さな村でも百姓家は畑に出て留守と思って入った家で家人に見つかり、危うく逃げ切ったところだったのだ。
「そうかの。なんでそんなに急ぎなさるかは解らんが、今日はもう日暮れも近いでの、街道を行くのは無理じゃ。鈴虫は昼間も油断は出来んが、日が暮れてからは格段の恐ろしさがあるで」
「でも、その西瓜があれば逃げられるんだろう?」言いながら遠雷は懐から飾りのついた短剣を取り出した。
「思ったより稼いでいやがった」牛の引き綱を握って荷車に乗った遠雷は、老人の懐から抜き取った金袋を確かめた。荷車には西瓜の他に心臓を一突きにされた老人の骸《むくろ》も乗っている。いつもなら鈍々としか歩かない牛は何かに怯えたように早足で街道を先程とは逆の方向に進んでいた。
空はまだ薄っすらと茜に染まり始めただけだったが、地面には長い影が延びて、頭上には淡く白い月がまだ青さの残る空に浮んでいるのが見えた。