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火曜日の幻想譚 Ⅲ

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265.史書編纂部の坂井さん



 定時間際の会社のトイレ。

 洗面台で身だしなみを確認する。うん、バッチリ。でも、今日はこれだけじゃない。私はブラウスのボタンを開ける。寄せてあげてどうにか作られた胸の谷間が見え隠れする。
「よし、行こ」
どうでもいい書類を持って、ビルの片隅の部屋へと向かった。そこのプレートに書かれている文字は、『史書編纂室』。私は深呼吸をしてから、その部屋にノックをして入る。
「お疲れさまでーす」
 部屋では、1人の男性が何か書き物をしていた。いかにもロマンスグレーという感のある白髪交じりの髪。痩せぎすな体。油の抜けたとか、枯れきったという形容が似合う乾いた顔つき。この方が、私の意中の人、史書編纂部部長の坂井さん。彼は、表向きは史書編纂部の部長だが、部下は1人もいない。昔、大きな失敗をしてしまったらしく、それ以来この閑職についているらしい。でも、普通は数カ月で音を上げて辞めてしまうらしいこの職務を、彼は10年近く勤め上げている。そんなところも、私をとりこにさせる要因の一つなのだ。
「坂井さん、今日こそ飲みに付き合ってくれますよね?」
坂井さんの真正面で上目遣いをして、彼を飲みに誘う。今まで、どんなアプローチをしてもなびかなかった朴念仁だ。ちょっとあざといぐらいじゃないと、この木石は動きはしないだろう。
 坂井さんは、私の強気に気圧されたのか、ちょっとたじろいだ。そして一瞬だけ目線を下に落とし━━恐らく、胸の谷間を見たのだろう、すぐ私の目を見る。そして、ややおびえるようにうなずいた。
 その途端、定時のチャイムが室内に鳴り響いた。


「飲み過ぎですよ、言わんこっちゃない」
数時間後、坂井さんに抱きかかえられ、私は彼のアパートの扉をくぐっていた。
 酔っているように見せかけていた私は、電灯も付けず、敷いてあった布団に寝かせてくれる坂井さんをおもむろに抱き寄せ、無理やり唇を奪う。
「!?」
むっと来るお酒の匂いと加齢臭。だがお酒臭いのは私も同じだ、何の頓着もない。そのまま彼のワイシャツのボタンを外してランニングをずらし、股間に手を伸ばす。


 めくるめく時間はあっという間に過ぎ、私たちは肩で息をしながら見つめ合っていた。やがて彼は、台所へと向かい、コップに水をくんで戻ってくる。そして、電灯のひもを引っ張った。

 明かりの下に坂井さんの姿があらわになる。その瞬間、私はがく然とした。

 薄くなった頭髪。落ちくぼんだ目。ボロボロの肌。鶏ガラのような体。同じ人間とは思えないような、異形の生物がそこにいたような気がした。
 史書編纂室、バー、そして電気をつける前のこの部屋。思えば、私は薄暗い場所でしか坂井さんを見ていなかった。きちんとした明かりの下で、彼を目の当たりにしたのは、このときが初めてだったのだ。

 私は急にはき気を催し、服を抱えて彼の家を飛び出した。そして近くの自動販売機で水を買って飲み干す。それでもはき気は収まらず、自動販売機の横でゲーゲー戻し続けた。途中、スケベな男が下着姿で服を抱える私に声を掛けてきたが、それも無視してはき続けた。


 坂井さんは、翌日から会社に来なくなり、程なくして退職した。


作品名:火曜日の幻想譚 Ⅲ 作家名:六色塔