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火曜日の幻想譚 Ⅲ

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270.後継者



 小学生時代、学校の帰り道で奇妙なおじさんに出会うことがあった。

 そのおじさんはいつも歩道に一人でしゃがんでいた。歩道でしゃがむのもそうだが、そのおじさんが特に奇妙なのは、キャッチャーの防具一式を装備してしゃがんでいるということだった。
 ヘルメット、マスク、プロテクタ、レガースと、しっかりと防具一式に身を包んでおじさんはしゃがみ込み、当然のように左手にはキャッチャーミットを構えている。すなわちおじさんはボールを受ける態勢で歩道の真ん中にたたずんでいたわけだ。
 打者も審判も、投手さえもいない歩道の上でしゃがんでいるそのおじさんは、当然のように変質者として僕らの街では扱われていた。下校前に先生に気をつけるよう言われたこともあったし、女子の中には通り際に何かされることを恐れて、わざわざ帰り道を変える子もいたと聞いた。

 周りがおじさんをそのように酷評する中、僕は心中である考えにとらわれていた。あのおじさんに、全力でボールを投げてみたらどうなるだろうか。一人、脳内でそんなことを考えていたのだ。
 僕は早速その考えを実行に移すべく、野球ボールを持って歩くことにした。人に話したら先を越されてしまうだろうから、このことは誰にも言わないようにして。

 そんな生活を始めてから数日後、早速そのチャンスが訪れる。僕が一人で下校している時、通りの向こうに、しゃがみ込む小さい人影を見つけたのだ。
 その瞬間、僕の心臓は高鳴った。チャンスがやってきたドキドキと、今からボールを投げるというドキドキで心臓が張り裂けそうになる。おじさんは僕のボールを受けてくれるだろうか。それとも怒って追っかけてくるだろうか。そんな気持ちを抱えながら、僕はおじさんの10メートルほど前で仁王立ちをした。

 おじさんは最初、面食らったようだった。そりゃそうだ。今までミットを構えていても何も起きなかっただろうに、今日はいきなり一人の子どもが立ちふさがったんだから。しかし次の瞬間、おじさんの目つきが変わった。僕がボールを取り出し、振りかぶったからだ。

 僕は地元の少年野球チームに入っていた。でも、あまり上手なほうではなく、いつも補欠だった。試合の際、マウンドで球を投げている同じクラスの小沢くんに憧れを抱き続けながら、ボールをダラダラと拾っていた。
 そのたまりにたまった鬱憤、ふがいなさ、自分が認められない怒り、それら全てをボールに込め、マウンド上のエースになった気分で僕は、少し先に座っている見知らぬおじさんに球を投げつけた。

 矢のようなスピードでボールは飛んでいく。おじさんはマスクの奥で目を見張りミットの位置を変えた。そしてその位置で、バシンと大きな、それでいて小気味良い音を立て、ボールはその動きを止めた。

「ナイスボール!」

 おじさんは立ち上がるやいなや、大声で僕の送球を褒めながら返球した。と思ったら、すぐさまきびすを返して走り去ってしまった。手には投げたボールが舞い戻り、そこには僕一人だけが取り残される。

 僕はすぐさま母親や友人にこのことを報告した。これは、おじさんは悪い人じゃないんだ、変質者じゃないんだということを暗に言いたかったのだが、周囲の人々はそう受け取ってはくれなかった。お母さんは知らない人にそんなことをするもんじゃないと叱ったし、友人たちも僕のしたことを気味悪がって誰も評価してくれなかった。そんな友人の一人が告げ口したのだろうか、僕は後日、担任の先生に呼び出され、変質者を刺激してはいけないとこっぴどく怒られた。

 僕のしたことはそんなに悪いことだったのだろうか。少なくとも僕は、投手になれない絶望や悲しみを、つかの間、おじさんにいやしてもらった。あの「ナイスボール!」はいまだに胸の中に鳴り響いている。マウンドで投げる機会すらなかった僕の投球を褒め称えてくれた人を、街が拒む権利はどこにあったのだろう。

 僕が投球したせいで監視の目が厳しくなったからだろうか、あの日を最後におじさんの姿はこつ然と消えてしまった。それから長い月日が立ち、僕は今、防具に身を包んでミットを構えている。あの日、救われた僕のように、今、つらい思いをしている子を救いたい。その一心で、硬いアスファルトの上にしゃがみ込み、ミットを構え続けている。

 いつかあの日の僕が、数メートル先に立ちふさがってくれる瞬間、それだけのために。


作品名:火曜日の幻想譚 Ⅲ 作家名:六色塔