火曜日の幻想譚 Ⅲ
280.お客さん
ここはN県の竹美町。そのほぼ中央に位置する竹美町役場の総合窓口。
「……ふう。暑いなあ」
「……ええ。暑いっすねえ」
ようやく梅雨の開けた7月上旬の午前中、まだまだ夏はこれからだというのに、嫌になるほど暑い。
たくさんのせみが一斉に鳴きわめき、役場にまでその声がうるさくこだまする。
一匹の野良猫がダルそうに日陰で横たわり、後脚で耳の裏を器用にかいている。
扇風機が首を振りながら、無駄なあがきとばかりに生温い風を送り続けている。
片隅で申し訳程度についているテレビでは、高校球児が熱闘を繰り広げている。
「……誰も来ないっすね」
「うん。この暑さじゃなあ。手続きになんか来るわけもないわな」
そんな会話を最後に、二人は黙りこくってしまう。おおかた暑くて、しゃべるのも面倒なのだろう。後に聞こえるのは、大きな大きなせみの声と、かすかに聞こえる扇風機の音、そして、テレビが漏れ伝える球児たちの戦い。
そんな光景が小一時間続いた頃、遠くのほうから、アイスキャンディーを売る声が聞こえた。
「……井原さん。アイス、食いたくありません?」
「……一応、職務中なんだが、まあいい。おごってやるから買いに行ってきて。俺の分もな」
猛暑の中、金を受け取った若い職員は、一目散にかけだしていった。
さらに時間がたった。
二人のデスクには、一本ずつ食べ終わったアイスの棒が、つかの間の冷たい快楽の跡を示していた。天頂近くに昇った陽に呼応するように、せみの鳴き声はその音量を増している。テレビからは、勝者と敗者が決定したのか、ひときわ大きなサイレンが聞こえてくるが、せみの声には遠く及ばない。
そんな緩みきった空気の中、突然、扉が開き、一人の女性が入ってくる。
「あのう、住民票の写しがほしいんですけど」
「はい。住民票ですね。こちらの書類に必要事項を記入してください」
若いほうの職員が素早く対応する。しばらくして、女性は書き終えた書類を渡しながら言う。
「あ、そこのアイスキャンディー屋さん、おいしいですよね。最近ここら辺、よく通りがかるんで、私もつい買っちゃうんですよ」
恐らく、食べ終えたアイスの棒が目に入ったのだろう。そう話し掛ける女性の顔は、うれしそうだ。一方で、アイスを食べていたことがばれた二人は、申し訳なさそうに作業に取り掛かる。
「はい。こちらです」
数分後、完成した書類を渡すと、女性は礼を言って、軽やかな足取りで去っていった。
「…………」
「…………」
「ゴミ箱、捨てておかないといけなかったな」
「はい」
若い職員が、2本の棒と袋を手早く隅のゴミ箱に入れる。
今日、手続きに来た町民は、彼女一人。竹美町役場は今日も平和だった。