火曜日の幻想譚 Ⅲ
291.予言者
ある日、電車に乗っていたこと。
とある駅で、ちょっと奇妙な人が同じ車両に乗り込んできた。寒い冬だというのに、彼は半袖と半ズボンを身をまとい。早口かつ大きな声で、わけの分からない独り言を詠唱している。
瞬間、車内に漂う緊張感。
とはいえ、わりと電車に乗っていれば、こういう乗客には頻繁に出くわすことだし、往々にしてその緊張感は無駄に終わることが多い。彼らは騒々しいし、見ていると危なっかしいが、危害を加えることは基本的にないし、ちゃんと目的と思われる駅で降りていく。そういった社会生活をちゃんと営むことができる、そういう判断を医師から受けているから電車に乗ってきているのだ。身構えはしてしまうが、こちらもそれぐらいの判断はできているつもりだ。
今日もそんなつもりで、横目に彼のことを気にかけながらスマホをタップしていた。彼は相変わらずの早口で、とりとめのない言葉をまき散らしていたが、やがて私を視界の中に入れると、いきなり走り出し、隅の座席に座る私の前に陣取った。
スマホでニュースを見ていた私は、いきなり影ができたのに驚き顔を上げる。そこには、先ほどまで数メートルほど離れていた彼がこちらをにらみつけている。たじろぐ私。周囲の人々は、彼が、女性の私に危害を加えるのではないかと警戒し、立ち上がる。その時、彼は出し抜けに私を指差し、大きな声でこういった。
「判定負け! 判定負け!」
私を含めた周囲の人間は、拍子抜けする。判定負け? 何のことだろうか。私は別にスポーツなどしていないし、目の前にいる彼にスポーツをしているところを見せたこともない。私たちが、その言葉の意味を探っていたら、電車は次の駅に到着し、扉が開いていた。彼は何も言わずきびすを返し、あっという間に電車を降りて消えてしまった。
「お姉さん、あんまり気にするなよ」
立ち上がってくれた男性の一人が、そう言って再び座り、文庫本を読み始める。他の人たちも座り直して各々自分の作業を再開する。そこには、先ほどの緊張感など全くなく、仕事の帰りの安心しきった空気が車両を包み込んでいた。
それから20分ほどたち、私は家の玄関を開ける。部屋着に着替えてようやく落ち着いたところで、付き合っている彼から、電話の着信があった。話の詳細は省くが、結論から言うと別れ話だった。他に気になる女性ができてしまい、このまま付き合っていくのは不可能なので、申し訳ないが別れてほしいということだった。スマホ越しでの長い話し合いのあと、仕方なく承諾して通話を切り、涙にぬれた顔で窓に目をやる。暗くなってきた外の景色と、鏡に反射する涙にぬれた自分の顔。それらをながめながら、彼との思い出を掘り返していく。そのとき、なぜかふと電車内の彼のことを思い出した。
「判定負け! 判定負け!」
そうか。数時間後、私が判定負けを喫し、恋にやぶれることを彼は予言していたんだ。私は飲み慣れないお酒を取り出してあおりながら、あの偉大な予言者に、なんともいえない感情を抱いたのだった。