火曜日の幻想譚 Ⅲ
294.近田くんの特技
うちの若手の近田くんは、ずいぶんとぼんやりしている男子だ。
取り立てて仕事ができるというわけでもない。いや、はっきりと言ってしまえばできないほう。見た目もちょっと小太りで、同性の私から見てもパッとしない。強いてあげればおっとりしていて温和なので癒やし系というやつなのかもしれないが、競い合うのがとにかく苦手で気も小さいので、うちのような中小企業でやっていくにはちょっと難しいタイプだというのが、社員の中での一致した見解だった。
社長がなぜそんな近田くんを採用したのかはよく分からないが、慢性的な人手不足に悩むわが社に入ったからには、タダ飯を食わせておくわけにはいかない。私たち現場の人間は、どうにかして彼の居場所を探す必要に迫られた。小さい会社でも役割分担というものは存在するし、さまざまな業務がある。われわれは彼にも輝ける場所があることを信じて、いろいろな仕事を任せてみることにしてみた。
しかし、結果はどれも思わしくない。営業に連れていこうとすると、緊張でおなかを下してしまう。仕入先に連れていっても、ろくに目も合わせられない。社内で事務作業をやらせても、すぐ集中力が切れてミスを連発する。われわれも決して暇ではないため、彼の居場所を探すという当初の目的は、次第に忘れ去られてしまい、入社後1年もたった頃には、彼は比較的どうでもいいことを頼まれるだけのいわゆる使い走りと化してしまった。
そんな近田くんの会社生活2年目の夏。外からの帰りで喉がからからだった私は、会社に備え付けの自動販売機でお茶でも買おうと思った。しかし、このうだるような暑さだ。みな、われ先にと飲み物を買い込んでしまったのだろう。自販機は無情にも、全ボタンに「売切」の文字を赤く光らせてそこに立っていた。
「まいったなぁ、こりゃ」
この暑い中、また外に出てコンビニエンスストアなど行きたくない、まだ汗も引いていないし。かといって、この喉の乾きはいかんともしがたい。どうしようか思案していると、後ろから近田くんの声がした。
「あのぅ、麦茶、ありますけど飲みます?」
麦茶。なんでそんなものがあるんだろう。聞いてみると、先ほど来客があったのだが、事務兼お茶くみの菅原さんが多忙で手が離せないため、近田くんが代わりに麦茶をいれたらしい。普通はコーヒーかお茶を出すもんだと社長に叱られ、あわててコーヒーをいれていたところに私が帰ってきたというわけだ。
相変わらず、間が抜けているなと思ったが、この状況で麦茶は渡りに船だ。私は彼から茶わんを受け取り、一気にのどの奥に流し込んだ。
「……!!」
何だこれは。めちゃくちゃうまい。これ、ほんとに麦茶なのか。私はおかわりを要求し、今度は味わって飲んでみる。確かに麦茶だ。だが、こくもまろみものどごしも違う。普通にいれたものや市販のものには出せない味。私は近田くんにどういうことなのか聞いてみる。
「僕、小中高と野球、やってたんです。でもずっと補欠で。気付いたら12年間麦茶をいれてただけでした。でも僕の麦茶、なぜかみんな、おいしいおいしいって飲んでくれるんです」
確かにうまい。これは近田くんの特技といっていい。そのとき、私の頭にある考えがひらめいた。
その後、近田くんはわが社のお茶くみ係として、その才能を一気に開花させた。当初、コーヒー派の社長は私の提案に難色を示したが、一度、彼の麦茶を飲ませたら何も言わなくなった。
彼をお茶くみ係に据えることで、さまざまな相乗効果が発生した。事務兼お茶くみだった菅原さんは、女性ってだけでお茶をいれさせられるのは前近代的でおかしいと常々思っていたことを吐露し、今は集中して事務の仕事をバリバリとこなしている。来客者の中には、彼の麦茶目当てにやってくる者も多くおり、彼らの口コミもあってか、わが社は過去最大の売り上げになる見通しだ。さらに社員の私たちは、みな、少々スリムになった。砂糖やミルク入りのコーヒーから、麦茶へと常飲するものが変わったのだから当然だろう。
今日も近田くんは、水を得た魚のようにやかんで麦茶をいれ続ける。そんな彼は近々、結婚を控えているそうだ。どうやら相手の女性も彼の麦茶にほれ込んだらしく、こいつ、ぼんやりしているようで意外に抜け目がねえな、と思ったのは内緒だ。