火曜日の幻想譚 Ⅲ
355.雪解けの幻影
冬。人間国宝、浅野元三郎さん(71)の朝は早い。
浅野さんは、日もまだ昇らぬ3時ごろにはもう床を出ている。真冬の深夜から明け方にかけての時間は、想像を絶する寒さだ。その寒さの中、ひげをあたり、朝食の握り飯2個とたくあん2切れを食べてから、いつもの縁側に座る。その縁側は、浅野家の庭が一望できるようになっている。簡素だが非常に手入れが行き届いている、小ぎれいな庭。そしてその先には、雪の降り積もる山々が見える。浅野さんはその縁側で、ぼんやりと雄大な景色を眺める。奥さんが傍らに置いたお茶をときどきすすりながら、視界をゆらゆらとさまよわせ続ける。
昼食も握り飯2個とたくあん2切れ。これ以上でもこれ以下でも、たくあん以外でもいけない。12時半きっかりに奥さんが置いたのを、いつとも知らずに浅野さんは食べ、この一見何にもしてないように見える作業に没頭する。
夕方5時。奥さんが時間を知らせる。疲れ切った浅野さんは、夕食もそこそこに床に入ってしまう。
浅野さんは厳冬の中、こんな生活を日々、続けているのだ。
時がたち、初春。春の足音が聞こえ始め、ようやく暖かくなり始めたこの頃。冬を通して行い続けていた、浅野さんの作業が実を結ぶ。好事家の人々は、この瞬間のためにこの地を訪れ、カメラを構えている。
「パキッ、パキン」
雪の解ける音が聞こえ始める。その雪が集まって小川を形成し、雪解け水が山を流れていく。そこに初春の柔らかい日差しが当たり、美しい虹ができる。するとそこで、驚くべき光景を目の当たりにする。虹の上に、大きな金魚がピチピチと踊っているのだ。
「パシャ、パシャッ」
集まった面々はシャッターを押し、その虹を泳ぐ金魚をカメラに収める。その次の瞬間、金魚が虹に溶け、7色になる。
「おおー」
「さすが浅野さん。芸が細かい」
シャッターの音は止まらない。
別の場所では、小川に架かる虹の中を芸者が艶やかに踊っていた。七色の虹の中で美しい芸者が艶やかに踊る。こちらもシャッターを押すことすら忘れてしまうほどの絶景だ。
浅野さんは冬の間、山に降り積もる雪に自分の脳内のイメージを閉じ込め続けていた。そのイメージが、春、雪解けによって生じる虹に幻影のように映るのである。浅野さんは、この「雪解けの幻影」の第一人者の名をほしいがままにしているのだ。
だが、この道を志すのは非常に厳しい。さまざまな業界と同様に、この世界も後継者の不足が叫ばれている。先日も、若さのあまり性的なイメージを雪に焼き付けてしまい、恥ずかしさのあまり若手が辞めていった。
浅野さんも、もう限界が近い。
「冬の寒さも厳しいし、俺もいつお迎えがきてもおかしくねえからな。あと数回で足の洗いどきかなと思ってるよ」
雪解けの幻影は、数年後、本当に幻影となってしまうのかもしれない。