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火曜日の幻想譚 Ⅲ

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312.迷惑ではなかったメール



 その日、彼はプライベートで使っているメールの整理を行っていた。

 親族からの連絡、もうめったに会わない知人からのメール、昔一度だけ利用した通販サイトのメルマガ……。数カ月ぶりに開いたメール画面は、いくつかの重要なものと、少しの読めたら読んでおきたいものと、大半のどうでもいいものが、うずたかくメール画面に積もっていた。

「…………」

 彼はそれらのタイトルを一つ一つ確認し、捨てるか否かの判断を行っていた。その時間はわずかに数秒。タイトルで判断が付かないものは、仕方なく本文をざっと確認する。それでも作業時間は10秒に満たない。そんな高度な判断を高速で行っている彼の表情は、厳格でいて険しい。
 2カ月前、1カ月前、3週間前……。次第にメールの日付が現在へと近づいていく。メールの整理はもう終盤に差し掛かっていた。それでも彼は、疲れを見せることをせず、要不要の判断を瞬時に行っていく。
 ついにメールの受信日付が、今日を迎える。そこから数件、色のついたメールは存在を喪失した。すなわち、彼はメールの整理という作業を無事にやり終えたのだ。
 思わずふうと息をはく。やり終えたという達成感と、あれだけ重要な判断を瞬時に連続で行った疲労、それらが彼の体を包み込んだ。

「…………」

 だが、彼の心はなぜか満足していなかった。なぜだろう、何かが足りない。すっきりとした心中に潜む小さなよどみ。彼は疲れた頭脳を再び回転させ始める、その違和の糸を少しずつ手繰り寄せるために。判断ミスがあったわけでもない。来る予定のメールが来ていないということもなかった。では一体何が、今、自分の心をほつれさせているのだろう。全てが既読になった画面の前で、彼は沈思黙考する。

「あなた、コーヒー、いれましたよ」

突然、背後から声が聞こえ、彼はビクンと体を震わせた。そこには妻がカップを乗せた盆を持ってたたずんでいる。

「ああ、ありがとう」

彼はコーヒーを受け取り、すすってそばに置く。この瞬間も先ほどの違和感の理由を解明すべく、彼は頭をフル回転させていた。

「取り込み中? もしかして、迷惑だった?」
「……いや、そんなこと、ないよ。うん。コーヒーありがとう、おいしい」

 妻が立ち去ったあと、彼の顔は少しだけ晴れ渡っていた。といっても、曇り空にほんの一筋の光が指した程度だが。

「そうだ。『迷惑』だ。それが足りなかったんだ」

 彼の言う『迷惑』、それは、かつて次々と舞い込んできた迷惑メールのことを指していた。少し前は奇妙な、でも妙にクリックしたくなるタイトルの迷惑メールが、山のように受信箱に積み重なり、それだけでメール画面に一大伽藍を築きあげていたものだった。
 しかし、最近はそういった迷惑メールも数少なくなった。さらに、メールのタイトルも本文も随分陳腐なものになってしまった。やたらと来ていたあの頃は、確かにうっとうしかったのに。まあ、少なからず本当にだまされたものもいただろう。そういう意味ではよろしくない。でも、当時のメールにはどこか、愛しさがあったのだ。
 あの、どうにかしてメールを開封してもらおうと躍起だったメールを書いた者たちは、今、もう別のシノギに手を染めているのだろうか。それとも出世して、管理職的な立場に収まっているのだろうか。

 いずれにしても、もう迷惑メールの世界に、あの黄金時代が帰ってくることはなさそうだ。心の違和の理由は判然としたが、それを解消することは、恐らく不可能なのだろうという現実を突きつけられ、彼は苦笑しながら再びコーヒーをすするしかなかった。


作品名:火曜日の幻想譚 Ⅲ 作家名:六色塔