火曜日の幻想譚 Ⅲ
357.ナイフなめ
恩田くんはすごくいい人だ。
物腰は柔らかいし、みんなに優しい。真面目で遅刻などもしたことはない。素晴らしい男性なのだが、それらを全て帳消しにしてしまうぐらいの変な癖を持っている。
彼は普段から、常にナイフをなめているのだ。
ナイフを携帯しているだけでも、変人のそしりを免れないが、彼はさらにその柄を右手で握りしめ、ねっとりとその刃をなめているのだ。普段からそうしているので、彼の二つの目玉は中央に寄っている、無論ナイフを見つめているためだ。そのせいで、イッちゃっている感がものすごい。だが、そんなたたずまい、そんな顔つきでも、決して悪い人ではないのだ。
以前、こんな事があった。おばあさんが大荷物を持って、横断歩道を渡ろうとしていたときのことだ。気のいい恩田くんは即座に荷物を持ち、「おばあさん、どこまでいくんですか」と手伝う体制に入る。相変わらず、右手に持ったナイフをぺろぺろなめながら。当然、おばあさんはおびえる。荷物を持ち逃げされるのか、それともそのナイフで一突きにやられてしまうのか。それを見た私たちは、あわてておばあさんを手伝う。比較的まともな私たちで、恩田くんのインパクトを薄めようという作戦だ。
その作戦が功を奏したのか、おばあさんの荷物を持つミッションは無事終了した。そのときから私の中に、恩田くんに対して特別な感情が芽生えていた。変な癖はあるけど、見ず知らずのおばあちゃんにも優しい。やっぱり、すごくいい人じゃないか。
私は恩田くんに手紙をしたためた、その特別な思いを伝えるために。数日後、その思いが実り、私たちは晴れて交際することになった。私は相変わらずナイフをなめている彼に、なぜなめるのか理由を聞いてみる。
「ナイフをなめるのに、理由なんかいらない」
いまいち要領を得ない回答だけど、それでいい。人にはナイフをなめる自由があるのだ。それを付き合っている私が否定してはいけないだろう。
それから月日が流れ、近々、私たちの挙式が決まった。私のおなかには、彼との子どもが眠っている。きっと彼はヴァージンロードを歩くときも、ナイフをなめているに違いない。
でも、誓いの口づけをする一瞬だけは、ナイフをなめるのをやめてほしいかもしれない。いや、ナイフごしのそれでも仕方がないか。彼の生きざまをだんだんと理解してきた私は、そういうふうに思った。