火曜日の幻想譚 Ⅲ
339.のぞく人間性
「おはようございまーす」
会社にたどり着き、自席について一息つく。相変わらずの寒さと、それに反比例するような満員の電車内の暑さ。そういった諸々のせいで、出社しただけでいや応なしに体力を奪われている。
「コーヒー、飲むか」
誰に言うわけでもなくそう告げて、備え付けのコーヒーを傍らに置いて再び席につく。
さて、会社に着いた時から、どことなく空気が違うのには気づいていた。なんというか、オフィス内がゆるゆるなのだ。
何を隠そう今日は12月27日。年の瀬の時期なのだ。
もちろん業種によっては、今が書き入れ時というところもあるだろう。だが、うちはもう今年は手じまいという感が強い。師匠が走り回るどころか、僕のような弟子すらも走り回ることはなく、ほとんどのことを来年にうっちゃってのんびりしてしまっている。毎年、この時期はそんな状態なのだ。
「及川君、及川君」
課長が僕を呼び寄せた。何事かと思い、はせ参じる。すると、
「金曜に書いてもらった書類だけどね。ミスがあったんで直しておいてもらえるかな」
との仰せ。よく見てみると一カ所、誤字が鉛筆で指摘されている。
「できれば今日中にお願いしたいんだけど、大丈夫かな」
ダメなわけがない。こんなミス、普段なら2分もかからない。課長もいつもなら、そのぐらいの心持ちで指示をするだろう。
「はい。わかりました。すみません」
頭を下げるが、どうにも怒られた気がしない。そりゃそうだ。数日前は、課長もきっと赤白の服を着て、子供の寝床に忍んでプレゼントを置いていたに違いないんだから。それにどうせあと数日後には、実家に帰って父から息子へと役割を変えるのだろう。そう、人間は役割の生き物なのだ。父、息子、課長。それぞれの役割が密接に絡みあうこの年末は、上司だって威厳を保てまい。
そこにいる同僚の佐藤さんだって同じだ。数日前のクリスマスはすてきな彼女として彼氏とイチャイチャしていただろうし、女子会に赴けば良き友人として友の恋愛相談に乗ったりするのだろう。まあ、彼女もいない、実家にも帰らないずぼらな僕みたいな人間は、役割もそんなに変わらないけど。……こほん。寂しくなるのでこの話はやめよう。
訂正した書類を、課長に再提出する。
「うん」
課長は書類を受け取り、全体をゆっくりと見直す。その動作は、いつも以上に緩慢だ。
「ありがとう、良い書類ができたよ」
「他に何か、ありますか?」
ないのを分かっていて確認する。
「いや。今のところは大丈夫だから。自分の作業に従事してて」
「自分の作業」なんてのも特にないのだが、とりあえず「分かりました」と言って課長の元を下がった。
自分の席に戻り、コーヒーをすする。まあ、どういう形であれ、僕はこのクリスマス明けから大みそかにかけての時期が大好きだ。みんな、どこか役割を切り替えきれないその様子が、とても面白い。そのせいだろうか、資本主義の権化であるはずの企業が、少しだけその歩みを止めるような気がする。そんな、普段は非人間的な会社やきちんとしているはずの社員が、ふと人間的な表情をのぞかせることに、僕はとてつもなく魅力を感じるのだ。
というのは建前で、本音はさぼりながらお金をもらえるのがうれしいだけなんだけどね。