火曜日の幻想譚 Ⅲ
258.赤の啓示
憂うつな雨の日。僕はうっとうしい気持ちで、傘を差しながら会社への道を歩いていた。
歩いていると、やがて前方から、1人の女性が歩いてくる。もちろん雨の日だ。彼女も傘を差していた。当然、僕らは歩道を左右に避けてすれ違う。その際、僕の目に飛び込んできたものがあった。
彼女が差していた赤い傘。そのてっぺん付近に、一匹の鮮やかな緑色のイモムシがのたのたとはいつくばっていたのだ。
僕は思わず、彼女の傘の石突き付近をじっと見つめてしまう。だが、彼女は、そんな僕に構うことなく、スタスタと歩き去ってしまった。
僕は歩きながら考える。彼女が飼っているイモムシ、なんてことはまずないだろう。きっと、木の下などを通った際に、ぽたりと雨滴に紛れて落ちてきたに違いない。ということは彼女は自分の傘に、イモムシがいることに気付いていない可能性が高い。
「……言ってあげたほうがよかったのかな」
実のところを言うと、見つけた瞬間も、そのように思った。しかし、言葉に出すのを止めたのだった。僕は口下手だが、その程度の親切心は備えている人間のつもりだ。では、なぜそれをしなかったのか。
彼女の傘はとても鮮やかな赤だった、それはまるで鮮血を思わせるような。その赤が、僕の意気を削いだのだ。何となく、居場所を告げ口されたイモムシのその後を暗示しているような気がして。
何を言っているんだ。イモムシの命なんてどうでもいいだろう。そんな意見もあるかもしれない。しかし、うっかり木から落ち、傘の上という場所で必死にもがいている生命を、無残に踏みにじることなどどうしてできようか。
また、そもそもイモムシの体液は赤じゃないという指摘もお門違いだと思う。われわれ人類の血液が赤であり、傘の色を見たのが人間の僕である以上、赤は血、そして死のメタファーになってしまうのだ。
だが僕は、女性もイモムシも助ける選択を取ることができなかった。これは事実だろう。そして、近い将来、カタストロフィが待っているともいうことも。
「きゃっ」
通ってきた道の少し遠くで、女性の叫び声が聞こえた。
目を凝らせば「何」が起きたか、「どう」したのか、分かる距離だった。だが僕は見ることをせず、罪の意識を感じながら会社への道を急ぐことにしたのだった。