火曜日の幻想譚 Ⅲ
259.空を飛ぶ弁当
昔、あるところに一人の男がいた。
妻とともに田を耕して生活していたその男は、あるとき、少し時間に余裕ができたので、妻が作った弁当を持って近くの川に釣りにいくことにした。
快晴の天気の下、川の水は緩やかに流れ、ほとりには草花が咲き誇る。少しばかりの命の休息になりそうだと思った男は、早速、適当な場所を見つけて釣り糸を川に垂れた。
温かい陽気、ゆるゆると流れていく川、周囲の草花に群がるちょう。あまりにのどかな景色に、男のまぶたはゆっくりと幕のように降りてきた。
はっと何かに気付かされ、男は釣り糸に目をやる。だが、魚がかかっている様子はない。この陽気だ、魚も寝ているのだろうかと、くだらないことを考える。そのとき、ふと歌声が耳に入ってきた。
「♪〜」
その愛らしい歌声に、男は心を奪われる。そうだ、さっき正気を取り戻すことができたのも、この歌声のおかげだったはずだ。男は周囲を見回して、歌声の出どころを探す。すると、ちょうど川の差し向かいにいる一人の娘が、歌を口ずさんでいた。
「おーい、いい歌声だなー」
男は早速、大声を出して、歌声の持ち主を褒め称える。
「ありがとうございますー」
娘は歌うの一時やめ、こちらも大声でお礼を言ってきた。
「気分がいいから、しばらく歌っていてくれよー」
男は、娘の歌声にあまりにもほれ込んだので、そんなことを大声で頼み込む。だが、
「ごめんなさーい。もうご飯を食べに帰りますー」
とつれない返事。
だが、もう少し娘の歌声を聞いていたいと思った男は、さらに食い下がる。
「じゃあ、俺の弁当を分けてやるからよー。頼むよー」
娘はその言葉を聞いて、しばし考えていたが、やがて、
「それなら、分かりましたー」
と答えた。
そこで男は、妻に持たせてもらった弁当━━中身はおいなりさんだった、を包みを半分右手に持つと、勢いよく対岸の娘めがけて放り投げた。
包みは勢いよく川を飛びこえ、娘のほうへと向かっていく。だが少々勢いが良すぎたのか、娘の頭を越してしまいそうになる。あわや、大切なおいなりさんが大地に落ちてしまう、その瞬間だった。
シュルン。娘が着物を脱いだかように見えた。そんなことをするわけがないと疑ってさらに目を凝らすと、さらに疑うべき現象が起きている。娘の体は、白と薄い茶褐色の体毛が生え、瞬時に4本足で素早い身のこなしの獣に変化していた。
「コーン!」
彼女は一声そうほえると、驚くべき跳躍力で跳び上がり、頭上を通り越しそうな包みをぱくりと口でキャッチした。そして、しなやかに着地すると、約束をほごにしてどこかへと逃げ去ってしまった。
「…………」
あ然としたまま、男は正気に戻る。対岸には既に誰もいない。さては、キツネにだまされたのか。それとも、ただの夢だったのか。
その日、男は結局おけらで帰ってきた。妻に釣果を聞かれた男は、
「魚は釣れなかったけど、かわいい雌ぎつねは一匹釣れたよ。残念ながらそれも取り逃がしたけど」
とだけ答えたという。
この話が広まって、きつねはおいなりさんが好き、という俗信になったとかならなかったとか。