火曜日の幻想譚 Ⅲ
351.陽気売り
うちの近くに、陽気売りがやって来ていた。
「陽気いぃやああぁぁっ、陽気いぃー。陽気いぃやああぁぁっ、陽気いぃー」
陽気売りの男はラッパを吹きながら、軽快に声を上げる。
「陽気いぃやああぁぁっ、陽気いぃー。陽気だけじゃないよっ。陰気がほしい方もいらっしゃいっ!」
男は近くの公園に自転車を止めた。近所の顔見知りが続々と男の元へ駆け寄る。
「リストラされて、人生、お先真っ暗で」
そう言ってうなだれる3件隣の青年の手に、中華まんを持たせる。
「はい。これ、食べて元気を出して、まずはハロワに行こう」
「老後の蓄えがなくて、これからが不安でのう」
下ばかり見つめるうちのアパートの大家さんにも、中華まんが配られる。
「大丈夫、大丈夫。あるところにはあるんですから、どうにでもなりますよっ」
「夫がいつも仕事で遅いのよ。やんなっちゃう」
そうぼやくお向かいの奥さんの手にも、男は中華まんを渡す。
「ほい。これを食べて、旦那のことなんか忘れっちまいなっ」
「九九の3の段が分かんなくてさぁ」
全く悪びれずにそんなことを口走る子どもの手にも、やはり中華まん。
「なあに、どうにかなるさ。勉強なんざしなくても生きていけらぁ」
僕はそんな様子を、家の窓からじっとながめていた。
3件隣の青年は、リストラではなく会社の金を横領してクビになったともっぱらのうわさだ。大家さんがお金を相当ため込んでるのは、他ならぬアパートの住人の僕が知っている。お向かいの奥さんは、旦那に浮気がばれているのをまだ知らないようだし、あの子は、そもそも不登校で学校にすら行っていない。
陽気がほしいというより、みんな何も考えたくないだけなんだろう。それならばこうすればいいのに。僕は彼らから視線を外し、考えるのをやめるために布団に横になった。