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堕楽した快落

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なめそれ

自分の名前と対面するよりも、時計を理解するよりも、人間の文明を把握するよりも先に、音楽という原型のない芸術に出会っていた。
大きな音というものに対し不快感と抵抗感を覚えていた私は、変わらずその大きな音に不快感を本能から来る危機感知能力からなのか、ただ単に鼓膜が破けそうだったのか、同時にその独特なリズムに興奮も覚え、曲が終盤に差し掛かると、自分の中にあるあまりに大きな不快感と抑えきれない興奮が混ざり合い、嘔吐してしまった。それは、今まで不愉快だと思っていた心の鼓動は、実は興奮であると覚え、人生が始まったばかりの私の心を容易に握り潰し、その興奮の奴隷とした私は、音楽に恋を叩きこまれる所から記憶が始まった。
私はきっと音楽人になるのだろう、漠然とそう思っていた。蜃気楼のように、霧のように、ただぼんやりとした空間には、私が歌っていたのを見た。そして、幼少の頃から、友達と遊ぶのはそっちのけ、心と本能の希うがまま踊っていた。
私は耳が良かった。それも、海外に住んでいたことも相まって、他人が聞こえない音も、私の耳は拾う、俗にいう地獄耳だったのだが、その名前の通り地獄で、陰口を聞き逃したことはなく、今思うに、あれはただ、多大なストレスで神経衰弱になっていただけであり、脳が、耳が、私が、過剰に敏感になり、全てを吸収してしまっただけである。それ故、回収してしまった情報が山となり、私はその中に埋もれてしまった。だがそれは決して悪い話だけではない。音楽という私の伴侶を一心に抱きしめられる、唯一が、私の耳なのであり、風を抱くように、耳で抱いて、体で愛を伝え、歌で囁いた。
しかし、愛した芸術というものは私の身体の一部となったのだが、大事なものは失った後に気づくように、私が音楽を試みようした時にはあまりに遅く、既に私は文学の湯に肩まで浸かっていた。音楽を当たり前のものとし、ないがしろにしていた罰なのか、そもそも文学人として私は生まれてきたのか、音楽に感動した刹那、気づくと体は音楽を妨害し、ペンを片手に感動を露出しようとしていたので、感動とは、私にとって綴れと唆す悪魔に成り下がったと涙を流した。非常に悔しく、心苦しく、涙もインクも滴り、累々と積み重なる不愉快な気持ちとは裏腹に、紙を鍵盤にし、ペンで文字を弾く私の手は、厭でも文の人間なのだという烙印を押された気分だった。こんな屈辱はないと、力んだ眉間が涙と共に落ちそうになるのを堪え、書き殴った感動を破り捨て、しかしどこか爽やかな気分になっている自分に反吐が出た。
音楽人は音楽囚われているように、私もまた、文学に囚われた文学人なのだろう。大人になり気づかされたその真実に、幼稚な馬鹿が稚拙な馬鹿を書いた馬鹿な過去に、呪いをかけるように睨みつけ、しかし、感動を全て放出しきれていない私の魂は、内部から溢れ出る止められようのない感動に身を焦がし焼死体になるか、未熟ながらも文で己の稚拙さを補い、己の不完全さを磔にし、悶え死ぬか、その二つに一つしかなかった。

私は文学と音楽の本質は非常に似ているものだと思っており、ただ唯一の違いは、己の本能を以てして文を綴るか音楽を弾くかの違いだけであり、文学も音楽も面の皮一枚破り捨てたその中身は、同じ芸術なのだと思っている。愛おしい気持ちを歌ったり、悲しい気持ちを綴ったり、未来への危険信号を発信したりと、文学人と音楽人は、言うなれば腹違いの兄弟であると。
もし神がいるとすれば、我々が創った美しさに身を躍らせ、天国は正に天国へとなるだろう。しかしそのせいで仕事を怠り、戦争はいつまで経っても負えないのだろうと考えると、同情半面、猜疑半面がのさばる。しかし、私も神も、どちらも等しく芸術を愛する者の一人で、その二つさえあれば酒がなくとも、いや、その二つがあるせいで、昼夜兼行酔い潰れているのであろう。音楽を聴くと、その狡猾さと壮大さに、もし音そのものが人間ならば、手を取って踊っていた。
もし神が私を音楽人として生み落としていたら、死んで天国へ招かれた暁には死ぬまで音楽という音楽を堪能させてやったというのに、神はなんて愚かなのだろう。私という音楽人を文学人間として生み落とし、これほどまで音楽を愛している人はいないというのに、きっと同族嫌悪なのか、もしくは同担拒否なのか、ともかく、なんと愚かな、なんとも残酷な仕打ちを私に寄こしたのだろう。神に人の心はないのか、ボケ、アンポンタン、イエスを救えなかった疑神が、地獄へ堕ちろ。
私たち文学人は、原型を留めない曖昧且つ流動的な感情や想像力というものを、言語性という濾過器に落とし込み、表現せねばならないが、音楽人は魂のまま、本能のまま、表現することが出来る。楽器という道具を使って、自分という楽器を使って、魂との共鳴を、そのまま形に表現できる。それぞれ一長一短あるが、その点私は、文学というものに囚われておりながら、未熟なだけだが、やはりそれを上手く伝えることが出来ない。
そして、音楽を聴くと、どこか壮大で、そう、自由。自由を感じる。
もしや、音楽人とは、音楽を血液に、酸素に、養分にし、一般人が呼吸をし、自由に生きているように、ただただ本能の一部として生きているのではないか、疑問が湧いて出てきた。
募るところ、私は自分で音楽人だと勝手に妄想しているだけで、生まれながらに文学人として、血も涙も魂も、私の身体の最後の一滴までをもインクとし、文字を書かなくてはならないのだろうか。もしくは、ただ、文学人と同じように、やはり音楽人も囚われているだけで、私はただ、私のその不自由さに、音楽人への嫉妬を抱いてしまったのだろうか。
ショパンの革命を聞くと、私の中でも革命がおこる。内戦甚だしく、治外法権と化した私の身体は熱くも冷静な、マグマのような怒り。そう、怒りが体を鈍重に廻り回り、私はそれが噴火せぬようにと原稿に垂れ流さなければならなくなってしまう。慌しく混沌とし、それを取り押さえる理性と戦争を起こし、私はいつも決まって民衆の歌を歌い、彼らはそれを許すまいと文章の一文を私に提示するのだ。しかし、やはり負けてしまうのだろう。私の性なのか、もしくは文学人としての性なのか、見当もつかないが、文字という文字に抑圧され、それを歌うように紙に鏤めるのだから。若しくは、我々民衆も警官も、全く同じ事を考えていて、互いに歌い、燥ぎまわり、その自由で愛を叫ぶのだろう。
作品名:堕楽した快落 作家名:茂野柿