堕楽した快落
あいてのおと
私には弟がいる。同じ干支程離れた腹違いの弟が。
弟の部屋を覗き、ヘッドホンをつけてピアノを弾いている弟の背中を見て、マイクへ向かって魂の叫び声を代弁しているのを聞いて、動画の再生数が十万回いったと、私に嬉々として語る弟が、間然するところのない弟が、一心に憎かった。
弟は、音楽をやっていた。私が出来なかった音楽というものに、私みたいにならないでほしいと、彼が本心から、腹の底から楽しそうなのを見て、自分の事のように嬉しかった。
両親が揃っていて、ペットも飼っていて、綺麗で、大きな家に住んでいて、私という兄がいて、欲しいものをすべて持っていた。私が、どれほど望んでも来なかったものが、諦め、いつの間にか溢していた己の何かが、親が、幸福が、才能が、音楽が、全てが、私が拾い損ねた、掴み損ねた才能が、重力に従うよりも簡単に、零れ滴り、弟という形となって流れ着いていた。
繭に包まれたような拷問であって、幸福に耐え切れず蕩けるような殺人であって、私が殺されていった。
父の家で幸福という解毒剤を一心に浴び、まともになればなるほど、自分の環境は劣悪だと気づくようになり、卑屈になればなるほど、希死念慮は昂っていく。もはや、まともな理性を持ち合わせようとも、酒気に包まれ煙を吹かし、理性のタグを外そうとも、抑えきれない希死念慮と未来に対する絶望は、煙が立ち込める中、血沼に足を突っ込んだと思えば、死屍累々の山々に囲まれていただけに過ぎなかった状況と、今の私はなんら変わりない。母から、祖母から、義父から、受けたものが歪んでいた。殴られ、犯され、生きたまま腹を裂かれる痛烈な痛みが、外から内から、逃げ場を失ったネズミが這いずり回るように、私そのものを、喰らう。もし、父の家庭で育っていれば、このネズミが沸き上がらなかったのかもしれない。しかし、もう既に脳まで食らい尽くされていた私は、父との関係も良くなく、剰え己を喰うネズミを守っていた。そのネズミを駆除しようとすれば、私は忽ちに死に絶えるが、そのネズミを離さなければ、己が食い破られるのであるから、最早救いはないのだろう。
憎く、妬ましい。しかし、しかしそれでも、私が父の家で感じる多幸感は、私の猜疑心を以てしても暴けない程、確実に、本物であると、どうもそう確信せざるを得ない。弟に対する愛情も、同情も、期待も、これらもまた疑いようがなく、しかし同時に沸く、弟に対する憎みも、妬みも嫉みも本物であると、父の家から一歩外へ出た瞬間、一心に太陽光を浴びるカーテンと、己のみを映す見栄を張った裏側の生地のような、そんな暗明分けた二律背反な私が、裏返され、愛が瞬時に憎しみへとなった時、確信した。それが、憎い。己の、憎しみと愛と、それらがひっくり返さざるを得なくなった私を。どこまでも醜く人を妬み、どれほど嫌われようと弟だけは愛してしまう、その中途半端さに。せめてどちらかに振り切れていて欲しかったと願うも遅く、生ゴミと煙草と酒とカビの匂いに慣れてしまった私では、最早何が普通なのか分からなくなってしまった。
弟には、それらを感じず幸せになってほしい。どうか、私が犠牲になるから弟だけは、と思う反面、不図、なんでお前だけ幸せなのかと、妬んでしまい、我に返ると弟を殺していた。愛が、弟に対する愛が、私によって殺されてしまった。
どれほど楽しそうに話しても、完全に私は自分を作っていると知ってしまっていて、幸せではない、負でもない、また何か違うものが私に割り込んできて、囁いた。
「おい。」
「認めなくなくない、私は弟が大好きだ。この十余年。弟を見て、その成長を見て、嬉々として私に音楽の楽しさを語る弟を見て、私は、私もそれに満たされていたはずだ。祖母と会う度、急に大きくなったね、と言っていたあの気持ちが私にも分かった。これが愛なのだと気づいた。」私はその正体に気づいていた。故に、認めたくなかった。
「いやそうではない。いや、もはやそれですらない。それらを超越したものだ。愛でもない、憎しみでもない。」
「違う。」私は怒鳴った。大地にいる全てに聞こえるように。
「誰に対して言っている。だから私が生まれたのだよ。」
怒号程の哄笑が憎しみの隙間から滴ると、失敬、と、それは名乗った。
「私の名は、無関心。」