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今朝も電車は(仮題)

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 彼の顔を見た瞬間、僕は心の底からそう思った。犯人はそいつだと一目で窺い知れた。顔はこちらを向いているのだが、まったく眼を合わせようとせず、しかも意識だけはこちらを窺う様子が在り在りと感じ取れた。それは半年前に痴漢してきたあの男と全く同じだった。だが、一見紳士的な顔と身なりをしていた彼と異なり、今回の男は丸く膨らんだ頬に締まりの無いスーツの着こなしを見るにつけ、いかにも自分にだらしなさそうな男だっただけに、その印象は最初からおぞましいの一言しかないのだった。
 そんな顔の表情を見ていると、疑おうとしても何ら疑うべくもなかった。僕は男を睨みつけ、問い詰めてやろうかと一瞬いきり立ったが、十七歳ともなれば、一人の男としての自覚があり、その一人前であるべき男が痴漢されているという恥辱に加え、痴漢の薄汚い脂ぎった顔を見ていると、声を掛けることも穢らわしく躊躇ってしまった。痴漢の手を払いのけるのも、やはり男の手に触れるのが穢らわしくするつもりにならない。そんな僕は、やり場のない怒りのあまり、持っていた傘の先でその男を突くことを思いついた。傘は都合よく、先端が金属の、使い方によっては凶器となりうる細長いものだった。
(万一、痴漢がコイツでなければ僕に何らかの非難の態度を取るはずだ。いや、コイツなのは間違いない、さあ、どう反応するつもりだ)
 左手に持った傘で、足元の暗いなか見当をつけて突くと、痴漢は躊躇した表情を見せ、手の動きを一瞬とめた。が、すぐにまた元通り揉み始める。僕は呆気にとられた。だが、揉まれるままにされるわけにはいかない。僕は周りの人に気付かれないようにと、もう二三度突いたがなかなか手応えがない。クリーンヒットしていないようだ。と、そうこう悪戦苦闘している間に、右側から小さく声をかけられた。
「おい、動けるんだから移動したほうがいいぞ」
 声をかけてきたのは、僕のすぐ右側に立っている若い男だった。彼の一言で僕は不図思った。
(ん? そうだな、確かに動ける。全く身動きできないほど混んでいるわけではない。ならば移動すればよいのだろうか)
 そう迷ったときだった。ふっ、と臀部が解放される感覚とともに、車内の天井から「お忘れ物にご注意ください――」と、駅への到着を知らせるアナウンスが流れた。間も無く電車が停まり、ドアが開いた。すると、どっと溢れ出すような通勤通学客の流れの中に、あの痴漢もまぎれているではないか。僕は追いかけるでもなく呼び止めるでもなく、どうすべきか考えあぐねているうちに、痴漢は人混みのなかに掻き消えてしまった。
「くそ。しつこそうな嫌な奴だったな。大丈夫?」
「いや……ああ……」
「捕まえようかとも考えたけど、君の同意もいるかなと思ったりしたし」
「いや、どうも……」
 僕は恥ずかしさからそう答えるのが精一杯だった。声を掛けてきた彼の顔を盗み見るようにして窺った。僕と同じような齢の男だった。というか、その顔にどことなく見覚えがある気がしたが、このときの僕は記憶を辿る余裕はなかった。
「俺も迷ったんだけど、こういうとき痴漢を捕まえられないなら、自分から移動するのがいいんじゃないのか。何もいつまでも黙って触られてる必要はないだろ」
 彼の言葉が車内に響いてやしないだろうか。周りの乗客の視線が気になって仕方がない。だが、彼の言うことは尤もだと思えた。そう、確かに移動すれば良かったのかもしれない。なぜ移動するという発想が出なかったのだろう。
「いや、だって……」
「まあ、怖いし、恥ずかしいよなあ」
「ああ、うん……」
 僕は思考が整理できず、意味を成さないこんな言葉しか返せない。
 彼は困っている僕を気遣ってか、それ以上の言葉を発しなかった。そして僕は降りる予定だった次の駅に電車が到着すると、乗り換えのプラットフォームへと早歩きで急いだ。背後では彼も降りた気配があったが、僕は恥ずかしさから後ろを一切振り返らず、地下の通路を歩き続けた。その姿は、彼からすれば、まるで彼から逃げるようだったに違いない。
(移動したほうがいいぞって言ったって、不必要に動けば、目立つじゃないか。周りの乗客の注目を集めろっていうのか)
 狭いうえに天井も低く薄暗い地下通路をくぐり抜けていると、恥ずかしさのなかに怒りも湧き出し、そんな綯い交ぜの感情のなか、僕は独り心の中で文句を垂れていた。
 驚いたのは予備校に着いてからだった。講義の合間にトイレに立ったとき、電車内で声を掛けてきた彼を見掛けた。そこでやっと思い出した。彼は僕と同じ、ある特定の大学進学コースの生徒だったのだ。もっとも彼は、二つ分けられたクラスの成績の良い方のクラスで、顔を見る機会はそう多くなかったが。
 結局、彼とはその後も予備校内では会話することはなかった。講義の合間や帰りなどに運悪く眼が合うことはあったけれども。

 この痴漢されたという忌まわしい経験もあって、僕は被害に遭う女性の気持ちに充分同情を寄せることができるし、当然、自らすることもない。痴漢というものは、僕の場合もそうであったが、その初動期において、感付かれぬレベルの接触から始まることが多いらしい。先ほど痴漢と勘繰って勢いよく振り返った女子中学生の下半身には、僕の鞄が微かに触れ続けていたのだろう。そして僕を警察に突き出さんほどの態度だった彼女には感心せずにはいられない。彼女に比べると、僕はなんと情けないのだろう、彼女よりも年上の高校生だったというのに。さっきの彼女の態度からすれば、僕が本当に痴漢していたならば、僕を容赦なく捕まえたに違いない。でも本音を言えば、僕だってあの時痴漢を捕まえてとっちめたかったのだ。でもそれが出来なかったのは……そう、他の乗客の視線だ。不必要に騒げば彼らの視線を集めることになる。何か騒動が起きたとき、車内に充満するあの特有の雰囲気は、『社会の秩序を乱すな。お前が我慢しさえすれば、何事もないかのように振舞えば、今日も社会はスムーズに流れていくのだ』という非難の視線の塊だ。それで僕は動けなかっ……くっ!
(誰だ!)
 突然右手を強く握られた感触に僕は、心中で叫びつつ右に振り返った。
「何をぼーとしてるんだ」
「なんだ速見か、びっくりさせるなよ」
 一瞬僕は、三回目の痴漢かと色めきだったが、驚かしてきたのは速見という同じ大学に通う学生だった。誰あろう、二回目に痴漢されたときに声を掛けてきた、あの同じ予備校に通っていた奴だ。今、彼と僕は同じ大学に通っている。まさか彼も同じ大学を志望していたとは思わなかった。学部は異なるが、同じキャンパスだから通学途中でもときどき一緒になる。しかもサークルも一緒だから、今やすっかり知人、いや友人関係だろうか。

 サークルが同じになった経緯は少々意外だ。それは、新歓のときキャンパス内で繰り広げられていた様々なサークルの勧誘合戦を遠慮がちに見物していた僕に、彼が後ろから突然僕の肩に腕をまわしてきて、
「このサークルに入ろうぜ」
 と誘ってきたからだ。そのとき初めて彼も同じ大学に入学したのを知った。
作品名:今朝も電車は(仮題) 作家名:新川 L