今朝も電車は(仮題)
丁度、『啓蒙研究会』と白地に水色文字で書かれた紙製の幟の前を通りがかった時だった。シンプルな名の通りシンプルな雰囲気でサークルの人達が勧誘をしていた。啓蒙という言葉の意味はなんとなく知っていても、特に興味のない僕は、
(ふーん……なんだろ、漠然とした名のサークルだな)
と心中で呟きながら通り過ぎるつもりだったのだ。このとき、同じ新入生のくせに彼は半ば強引に僕を誘い、僕はそのサークルに所属することになってしまった。最初は断るつもりだったが、その理由を思いつくことが出来ず、また勧誘している大学生の中になんとなく気になる女性もいたりして僕は流されるままに居ついてしまっていた。
速見は握っていた僕の手を離すでなく、更に力強く握り締めながら言った。
「俺に全然気付かないから驚かそうと思ったんだよ」
「やめろよ、心臓に悪いんだよ速見のやることは」
「隙だらけのぼーとしてる奴が悪いのさ」
「いつも言ってることと違わないか」
僕は速見の手を振りほどこうと右手を煽った。
「痴漢の立場から言ってるのさ。俺が言ってるんじゃない」
速見は手を離しながらにやりと笑ったかと思うと、急に真顔になった。
「ちょっと待て。ほら見ろよあいつ」
何のことかと首をひねる僕に速見が顎をしゃくって示した方向は、あの新社会人の一団だった。
「ん? 誰?」
「あの肥えた奴だよ。あいつの目を見てみろ」
彼らのうちで横幅も高さも最も抜きん出ている男がいた。僕は彼を見て嫌な気持ちを思い出した。何故なら彼の容姿に、二回目に痴漢してきた男の面影を見たからだった。特に顔はよく似ているような気がした。そして彼の視線は女子中学生の一団に向けられていた。
「やるなあいつは。そのうちに」
速見は独り言のように呟いた。
「……かもな」
僕は、その男の目を静かに密かに観察してそう答えた。
(あの目……)
(あの目は人を人として見ていない目だ)
視姦と言って良いのかも知れないが、それとはまた違う感じ。まだ東京の通勤に慣れていない彼が、何かに気付いて、それを想像の中で手探っているような感じ。僕を疑った女子中学生の一挙手一投足を目で追っている。
目の輝きの変化から、純朴そうな彼の心中に何かが芽生え始めているのが分かった。
(やるな、こいつは)
将来、確かにこの男はやるかもしれない。もし東京勤務となれば毎日の満員電車はあまりにも誘惑が多い。彼のあの目ならきっとやる。将来もずっと、今のあの目のままならきっとやる。僕がそう確信する理由は、過去に痴漢してきた男の目にあまりにも似ているからだ。まるで獲物を狙う動物のような欲望に溢れた目だ。しかし、あの心理は一体どういうものだろう。他人の気持ちを考慮することなく自分の欲望のままに行動する心理は。そこに心の交流は存在しない。あるのはただ物質的な肉欲だけだ。ただ花を千切るような、あるいは鳥を無理やり籠に入れるような。
「行こうぜ。降りるぞ」
電車はいつの間にか僕たちの降りる駅に到着していた。速見は僕の鞄を引っ張って促すとさっさと電車を降りた。僕は慌てて速見の背中を追いかけた。
作品名:今朝も電車は(仮題) 作家名:新川 L